「お父さん、私は死ぬとね?」喉が焼けそうな熱さ 79 年前の空襲、火の海を必死で逃げた13歳 #戦争の記憶
取材・撮影:KKT熊本県民テレビ
約500人が亡くなった熊本大空襲から、今年で79年。2度の空襲が13歳の少女を襲いました。「お父さん、私は死ぬとね?」。煙で息ができない防空壕から火の海に飛び出し、ボウフラが泳ぐ水を飲んでなんとか命をつなぎました。13歳で死を覚悟した少女は、友人の死を悲しむこともできませんでした。
13歳の軍国少女「日本本土が戦場になる前は楽しい思い出」
1945年4月、1枚の集合写真が撮影されました。特攻隊の中継基地となっていた菊池飛行場(熊本・菊池市)から出撃する前の特攻隊員と慰問団が写っています。隊員の膝に座る3人の少女。一番左が当時13歳だった中野喜重子(きえこ)さんです。93歳となった今、高等女学校2年(今の中2)だった当時を振り返りました。 「慰問の当日、私は体調が悪く、兵隊さんとの会話などは覚えていない。ただ当時はもう大人になりかけていて、抱っこされるのが気恥しかったことは覚えています」 喜重子さんは満州事変が勃発した1931年生まれ。物心ついたときから、日本は戦時下にありました。軍国少女だった喜重子さんは舞踊で特攻隊員をもてなす慰問に数回出かけていたといいます。 「国家を重んじる教育はされていたけれど、子どもたちには、まだ生々しくなかった。むしろ日本本土が戦場になる前は、昼間は友達同士で遊んでいて楽しかったという記憶が多いんです」 しかし、この3か月後、喜重子さんは熊本大空襲に遭ったのです。 「もう死ぬという寸前までいったときの人間の恐怖というものは、もう味わった人でなければわかりませんね」と空襲当時のことを振り返ります。
「お父さん、このまま私たちは死ぬとね?」防空壕で息ができず…
喜重子さんは、現在の熊本市中央区大江で育ちました。喜重子さんは、6人きょうだいの一番上で、自宅の庭には、開業医の父が作ったブランコや滑り台などの遊具がありました。
1945年7月1日。熊本大空襲の日は晴天でした。喜重子さんたちはいつものように遊んで、夕食後いつも通り眠りについたといいます。 「午後11時半ぐらいだったかな。突然に警戒警報が鳴ったと思ったら、すぐ空襲警報に変わった」 両親ときょうだいは庭に掘っていた防空壕に避難しました。この夜、154機もの米軍機が熊本に襲来し約1100トンの焼夷弾を落としたため、市街地はたちまち火の海となりました。