弾劾決議案「不成立」、首の皮一枚で残った韓国・尹錫悦大統領、推し進めてきた日韓関係改善はどうなる
■ 「非常戒厳」は禁じ手 非常戒厳は韓国の憲法に定められており、「軍事上の必要」がある場合や「公共の秩序の維持が必要な場合」に宣言できる。しかし非常戒厳は、分断国家として、北朝鮮とは法的には休戦状態でしかないことを前提として制定された措置であると見るのが暗黙の了解だろう。民主主義国となって以降は一度も宣言されたことはなかった。44年ぶりとなる今回の宣言は、言ってみれば「禁じ手」である。 韓国では戒厳令に対する抵抗感が強い。1948年の建国からの76年間、その前半の約半分を軍事政権が占めてきたが、その間に学生をはじめとする民衆が戒厳令によって弾圧や拷問を受けてきた歴史があるからである。 最後に戒厳令を出したのは、1980年の全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領だった。 1979年に朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が暗殺されると、軍部内の対立が起き、保安司令官である全斗煥氏を中心とする中堅幹部勢力が、朴正熙氏の維新(独裁)体制の転換(民主化の方向)を目指す戒厳司令官の鄭昇和(デョン・スンファ)陸軍参謀総長を朴正熙暗殺事件の共犯として逮捕し、全氏を中心とした「新軍部」が実権を掌握した(粛軍クーデター)。 当時の崔圭夏(チェ・ギュウハ)大統領代行は早期の憲法改正や民主化を約束していたが、軍部を抑えきれず黙認せざるを得なかった。 一方、粛軍クーデター後も各地で民主化要求のデモが続いていた。このため、新軍部は80年5月17日に全国に戒厳令を布告し、執権に意欲を示す野党指導者の金大中氏や金泳三氏を逮捕したのだ。 すると18日から27日にかけて、金大中氏の地元・光州で軍事政権反対、民主化要求などを主張する市民が蜂起する。これに対して、新軍部は戒厳令に抗議する学生や市民を鎮圧すべく軍の空挺部隊を投入。デモ参加者は20万人にまで膨れ上がったが、犠牲者も多く出た。最終的な犠牲者は軍側が144人死亡と発表しているが、市民側は実際にはその数倍に上ると主張している。 新軍部の政権側は「北朝鮮の扇動による暴動」と発表しているが、真相究明を求める動きはその後も長く続いている。 こうした弾圧の記憶が韓国国民の脳裏に深く刻み込まれている。 野党勢力による国政停滞は尹錫悦政権にとって耐えがたいものである。しかし、前述のように、韓国では軍政を忌避する感情から、非常戒厳に対する抵抗感が強い。いかに国政が混乱しているといってもその収拾のために非常戒厳に訴えるのは韓国人の国民感情を強く刺激するものであり、尹大統領は、挽回できない窮地に自らを追い込んだと言ってよいだろう。