日本軍が共産党に活動資金を提供… 日中戦争に引きずり込まれた日本は「毛沢東の中国共産党」に操られていた
日中戦争は「中国共産党の思うつぼ」だった
橋爪:そもそも日本には、中国と戦争すべきかについて、国民的な議論も合意もなかった。1928年の張作霖爆殺事件、3年後の柳条湖事件(満洲事変)、翌1932年の満州国建国のあと、1936年に国民党の蒋介石が監禁されるという「西安事件」が起きて第二次国共合作が成立する。1937年7月に盧溝橋事件が起こると戦線が拡大し、日本軍と国民党軍の戦争は泥沼化していきます。 このように支那事変(日中戦争)でずるずる戦線が拡大してよいのか、日本陸軍の内部でも議論がありました。たとえば、満洲事変を起こした石原莞爾は、この戦争に大反対だった。そもそも満州国をつくったのは、ソ連と戦争をするため。対ソ戦では、戦線の背後にあたる中国の好意的中立が必要である。それには中国の主権や領土を保全しなければならない、というのが彼の考えです。まことに正論である。 でもその考えは陸軍の主流にならず、石原は主流を外された。そして戦争の泥沼に入っていったんです。日本は中国を攻める動機も意欲も計画も準備もなかったのに、状況にひきずられた。中国共産党の思うつぼでした。 峯村:そのソ連と対峙するため、当時の近衛文麿政権は事態の収拾を図るべく、駐華ドイツ大使に仲介を依頼して、国民党と交渉を始めました。しかし、陸軍参謀本部が対ソ戦争の準備を急ぐために蔣介石政権との和平交渉を主張したのに対し、関東軍は蔣介石政権を否認して新しい政権を樹立させることにこだわった。結果として近衛政権は1938年1月、対中政策に関する声明で「国民党政府を対手とせず」と言って交渉を打ち切ってしまいました。 当時、日本は国民党副総裁で「反共親日」を掲げていた汪兆銘と水面下で和平工作を進めていました。汪兆銘といえば、「中国革命の父」である孫文の側近中の側近です。汪兆銘を大事にしなければ、日本が日中戦争に勝って、その後の対中政策で優位に立てるはずがない。にもかかわらず、日本側が近衛声明を出したことを機に、汪兆銘の国民党内におけるプレゼンスはどんどん下がっていき、最後は失脚しました。
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