戦争に塗りつぶされた青春 旧ソ連のカザフスタンに抑留された男性が残したスケッチ
過酷な重労働 飢えに苦しまされ…
飯野さんと同じカザフスタンに抑留された男性が横浜市にいます。 97歳になる呉正男さん。台湾出身で、日本軍の爆撃機の通信士でしたが、終戦後、カザフスタンの収容所に抑留され、飯野さんと同様に重労働を強いられました。 元抑留者・呉正男さん「暑い時は暑いけど、冬は零下25度になると働かなくてもいいということになって、収容所を守っている旧ソ連の衛兵から『きょう零下25度だから出ちゃだめだ』と言われた」 抑留中、呉さんが特に苦しんだのが〝飢え〟です。食事はわずかな黒パンやスープだけー。 砂漠地帯のため植物が少なく、少しでも腹の足しにと、生えているものがあれば摘んで食べました。 元抑留者・呉正男さん「春になると芽が出てくる。一番早く芽が出るのは日陰の少し濡れた所、ウマがおしっこするような所。そこから芽が出てくると僕たちは摘んで帰って洗って食べたら回虫(寄生虫)がわいた」
飯野さんのスケッチでも空腹に耐えかねた日本兵が、捨ててあった馬鈴薯を食べようとしたところ、ソ連兵に見つかり何度も叩かれている様子が描かれています。 抑留された2年間で、呉さんの体重は、およそ60キロから41キロまで減ったといいます。 「必ず生きて帰る」ー。呉さんは必死に耐え抜きました。 元抑留者・呉正男さん「死んだら誰が僕の死を伝えるのか必ず帰ると決意したのを覚えている」
抑留された仲間同士で体験を後世に
飯野さんは、1年間の抑留を経て、引揚船で日本に帰還しました。すぐに身を寄せたのは、山形市門伝の生家でした。 山形で1年ほど暮らしたのち、東京に戻りました。 飯野さんの甥・飯野正興さん「飯野さんはここから外に向かって東側を向いて絵を描いていた。マツの木のある風景などを描いていた。『ちょっと出かけてきます』と言って画材を持っていって写生していた。抑留生活のことは全然聞いたことがなかった」 ことし5月、東京のギャラリーに飯野さんの作品が展示されました。カザフスタンでの抑留体験を伝える貴重な記録です。 福岡から訪れた女性「私の父は飯野さんと同じカザフスタンのクズウォルダに抑留されていた。どんな状況だったか絵を実際に見たいと思って、居ても立ってもいられなくなって、感極まってずっと見ていた」 これらの作品を保管していたのは、南陽市の岩井孝吉さんです。岩井さんの父・泰吉さんは、飯野さんと同じ収容所で抑留中の生活を共にし、一緒に帰国ー。飯野さんは泰吉さんら、同じ収容所で抑留された仲間と交流を続け、その過酷な体験をスケッチにして残しました。 岩井孝吉さん「かなり苦労したんでしょう。苦しかったんでしょう。仲間同士で『お前は描け』『お前は思い出せ』などと言いながら、常に集まっていた状態でこの文(作品)が出た」