戦争に塗りつぶされた青春 旧ソ連のカザフスタンに抑留された男性が残したスケッチ
終戦から79年 カザフスタンに抑留された山形市出身男性の思い
山形放送
ダムの建設現場での過酷な労働ー。ソ連兵から何度も叩かれる日本兵。スケッチには〝抑留の記憶〟が刻まれています。絵の下には回想文が添えられています。 「死亡した人が葬られるのだ。我々は砂漠の土を掘った。この人もなんど懐かしい肉親や故郷の風景を想いうかべたことだろう。私達は合掌した」 作品を見た人「仲間なので、やるべきことをやってあげて心を尽くして埋葬しているのではないかって…。ちょっと涙ぐんでしまいましたけど、そう思います」 「苦労したことがすごく感じられたり、人生を狂わせてしまうと感じた」 絵の作者は、山形市出身の元抑留者、飯野珪次郎さん(享年97)です。 スケッチの存在は親族にも伝えられていませんでした。 飯野さんの甥・飯野正興さん「抑留生活のことは全然聞いたことがなかった」 飯野さんの甥・工藤菊畝さん「よっぽど心の奥に残ったんだと思う」 〝抑留の記憶〟を刻んだスケッチは合わせて24枚ー。その一点一点に、当時を回想した言葉が添えられていました。
31歳で軍に招集 終戦後はカザフスタンの収容所に
飯野さんは1913年、現在の山形市門伝に生まれました。22歳で東京の帝国美術学校に入学し、絵の腕を磨きます。 卒業後、東京で就職しましたが、戦争の激化に伴い31歳で軍に召集され、旧満州の部隊に配属されました。 そして終戦直後、旧ソ連の捕虜となった飯野さん。 貨車で連行され、到着した抑留先は、旧ソ連の現在のカザフスタンにある収容所です。 「シベリア抑留」では終戦後、日本兵ら60万人以上が旧ソ連などに連れ去られ、寒さと飢え、重労働のため、6万人を超える人たちが犠牲になったとされています。 このうちカザフスタンには3万7000人が抑留され、およそ1500人が死亡しました。
飯野さんらの回想文より「これから一体どうなるのか不安が募るばかりであった。家々の後は涯しない沙漠である」 カザフスタンの収容所は砂漠地帯にあり、乾燥していて、寒暖差が激しかったといいます。 飯野さんはこの地で、レンガでの住宅建設やダム工事など、重労働を強いられました。 回想文より「掘る人、崩す人、運ぶ人がただ肉体でやる仕事である。仕事はノルマで決められた。出来高によって食事の量も決まる」 「今日もまた辛い仕事が始まる。一切の歓びから断ち切られた生活」