松井秀喜「4球団競合ドラフト」で“指名漏れ”した同級生エースのその後…彼の野球人生は悲劇だったのか?「後悔はいっぱいあったけど…」
星稜高の松井秀喜に対する甲子園での「5打席連続敬遠」が話題となった1992年。その年のドラフト、実は同校はドラ1候補の松井以外に、エースだった山口哲治もプロ志望を表明していた。松井には4球団が競合した一方で、山口の名は最後まで呼ばれなかった。弱冠18歳で別れた明と暗――では、その後の山口の野球人生はどんなものだったのだろうか。《NumberWebインタビュー全2回の2回目/前編を読む》 【貴重写真】「これ、ホントに18歳?」“貫禄ありすぎ”な高校時代の松井秀喜…広末涼子をエスコート&同期会での卓球シーンも。松井と同期のエース「まさかのドラフト指名漏れ」山口さんの高校時代と現在も見る(30枚超) 巨人の1位と指名漏れ。 くっきりと明暗が分かれたドラフト当日について、星稜のエースだった山口哲治は、ともにチームをけん引してきたスラッガーの松井秀喜と語り合ったことがないという。 「お互いに距離はあったはずなんです。松井は自分に気を遣ってくれていたでしょうし。だから、会話をした記憶はほとんどないです」 実際、当時はふたりがひざを突き合わせて話すだけの時間が物理的になかった。 松井は連日のように取材に対応し、プライベートでも「春季キャンプに行くまでに免許を取らないと」と、少ない空き時間で自動車教習所に通っていたことで忙殺されていた。
“指名漏れ”した山口に訪れた「来訪者たち」
そして、指名漏れという屈辱を味わった山口もまた多忙となった。 ドラフト会議翌日の1992年11月22日は日曜日で、次の日も勤労感謝の日で祝日だった。それは、ショックに打ちひしがれ「外に出たくない」と思っていた山口にとって、唯一といっていい慰めだった。 そんな山口のもとへ来訪者がやってくる。 まずは松本哲裕や北村宣能ら、ドラフト当日に教室で最後まで山口に付き合ってくれていたクラスメートたちだった。気を許せる仲間が自宅まで自分の様子を見に来てくれたことに、山口は「救われた」と今も頭を下げる。 そんななか、自宅のチャイムが再び鳴る。次なる来訪者は、神戸製鋼と名乗った。 せっかく松本たちが指名漏れの傷を癒してくれていたというのに――と、山口は水を差された気分になったという。 「みんなが遊びに来てくれて救われたと言っても、へこんでるはへこんでるんですよ。『なにしにくんねん』ってなりますよね」 社会人野球の最高峰と呼ばれる都市対抗野球で優勝を経験するなど、大会の常連でもある強豪チームからの勧誘だった。 「うちは誠意しかありません」 神戸製鋼野球部の担当者はそう言った。 そこに山口の父親が「野球をやめても会社に残してもらえますか?」と尋ねると、相手は「もちろんです」と答えた。 ドラフトの翌日という急展開であることもあって山口は面食らっていたが、このやり取りだけは脳裏に残っていたという。
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