競争社会の優勝劣敗は「自己責任」というフェイク
そして、同時に「どうしても限界が来たら一度ゲームを降りる」ための階段の踊り場が不可欠なのです。ちまたの自己責任論は、評価は冷徹な競争の「結果」だけだとし、だから公平だと強弁し、負けた者は次の勝負の段取りすら自分で調達せよと追い詰め、そしてゲームを降りた者たちを市場の敗者として、社会のメンバーから排除します。 百万歩譲って、「公平な競争なら仕方がない」としても、この世の社会経済的競争は、基本的な「公平」や「平等」を十分に用意していません。
教育を受ける豊かな経済基盤は、平等に配分されていません。直感的な能力や豊穣な想像力に長けていても、その反面、合理的かつ迅速な情報処理が苦手な者たちを適切に評価する学力基準が用意されていません。 その時代に受け入れられやすい容姿は、自分では選択できません。離婚や死別というアクシデントの責任は、子どもにはありません。未知のウイルスで肉体がむしばまれる者も無傷の者もいます。難病や障害をもっていることは自分にも起こりうる不条理です。これらはすべて、自由に選択できなかったことです。
善処する方法を考えて決断する諸条件が、きちんと用意されていなかった者たちにとっては、それが理由でうまくいかなかったら、それは彼らの自己責任ではありません。 ■無念さと無力さは敗者の言い訳ではない 自己責任論は、そういう「選択できなかったこと」を前にしてたたずんでいる人間の無念さや無力さなどをすべて「敗者の言い訳」と排除して、なおも「そうなることを避けるための努力が足りなかったのだ」と追いかけて来て切り捨てます。
なんと傲慢な理屈なのでしょう。自分の努力によってすべてを成し遂げたと結果から逆算して、人の善意や運にも恵まれたことを忘れる、自分に対しても他人に対しても浅はかな考え方です。そしてそれを「この世の冷徹な原理だ」とします。最悪のフェイクです。 明日不運にも破産したり、病気になったりしても、そう言えるのでしょうか? 国境を越えてヒトもモノもカネも行き来する、80億人もの人がいるこの星で起こる経済の動きなど、誰一人として自覚的にコントロールなどできません。必ず富の分配には歪みが生じます。