競争社会の優勝劣敗は「自己責任」というフェイク
PTAの運営において責任が生ずるとしたら、その場面は「目の前の子どもたちの命を守る」と「会員から集めたお金をきちんと管理する」以外にありません。基本的に、任意団体の活動には失敗がないのです。ボランティアですから。 だから責任は「目の前の子どもが危険にさらされたのに放置した」とか、「みなさんから集めたお金を公正に扱わなかった(横領した)」といった、「大人として当たり前の責務を果たさなかった」ということであって、それは「PTA役員の責任」ではないわけです。
どうしてこういうすれ違いが起こるかと言うと、私たちの社会の多くの人間が、責任を「失敗したことの後始末や尻拭い」と脳内翻訳しているからです。 裏を返せば、「失敗することを死ぬほど恐れるように教育されたこと」「失敗をした後のセカンドチャンスを、ほとんど用意してくれない社会で生きてきた」ということです。 ■「間違えるとアホと思われる」というおびえ 子どもの頃から正解を見つけてさっと先生に示し、決して間違えない、間違えたら「マジ、ヲワタ」と即断する、ノートの誤答はすべて消しゴムで消す、みたいなことを繰り返してきた人たちは、責任の本義(己の判断と行動とその結果を結びつけて考えること) を「失敗したダメな自分がそう烙印を押されて、それにじっと耐えること」と、独自の解釈をしてふさぎ込むのです。
だから、あれこれと事前に危険回避のための知恵を使います。「答えを間違えるとアホだと思われるんじゃないかというおびえ」を小・中・高と12年間育て続けた大量の日本人は、PTAのやってきたもう必要のない習慣(「運動会の招待席へのお茶出しのシフト表をエクセルでつくってミーティングする」など)を「やめましょう」と言われただけで、何かのスイッチが入ります。 そして、「やめた結果起こる心配なこと(文句を言われる、批判される、勝手なことをしたと指摘される)」の場面を1秒くらいの間に先回りして脳内に浮かべて、「責任取れませんから」と言って、なおも無駄なミーティングのために時間をつくり、夕方の家事育児の時間を無理してズラしたりするのです。「そんなのやめましょう」と言い出しっぺになることを避けるコストです。