競争社会の優勝劣敗は「自己責任」というフェイク
■競争社会での敗北は誰の責任か? この「失敗は許されず、それが回避できなかったときは、黙って耐えてやり過ごす」という心の習慣は、PTAの現場を超えた社会生活においても同じように展開されます。世紀転換後、規制緩和と競争の推奨、無駄を省いて効率よく優勝劣敗市場を生き延びようとする「ネオ・リベ」の風潮は、こういう過剰な自己卑下を「自己責任」という言葉で正当化させました。 各々が自分の才覚と努力とをもって競争社会に挑んだ結果だし、それは市場(アダム・スミスの言う「神の見えざる手」)が出した答えだから、敗北は自己責任であるという説明です。
でも、これは私たちの社会を、今日著しく萎縮させているよろしくない「フェイク」なので、やや強めに言っておきましょう。 「自己責任」などというものが問題になるのは、自分が「自由に選択することができた場合」だけなのであって、結果に至るまで「そのような条件を強いられざるをえなかった」、あるいは「自由に選択しろと〝限定された選択肢〞を無理に押しつけられた」場合には、問う必要も意味もないものです。 単体では弱くて卑小なる人間が、それでも己と他者の力を信じ、多くのチャンスを得て、失敗したり間違えたりしながら成長していくための胆力とポジティブな力を引き出させる工夫を「教育」と呼びます。
そのために不可欠なのは、徹底して「自分を重んずる人間になる」ために、「次のチャンスを提供し」「適合しない競争やステージとは別の選択肢を用意する」という3つです。 ■「公平」や「平等」は十分に用意されていない にもかかわらず、今日蔓延している自己責任論は、成長すべき者たちに一番必要なこれらの3つの基盤を、ことごとく奪っていくのです。人間は、他者からの肯定的評価なしには自分を自律的に支えることはできません。そして、小さく卑小なる、世界に対して不完全情報しか持ち得ない人間は必ず失敗するため、とにかくセカンドチャンスが必要です。