クソみたいな世界を生き抜くためのパンク的読書。/紹介書籍『東京ヒゴロ1~3巻』
何回だってやり直す 何回だってやり直すんだ 抑えきれない衝動。溢れ出るアイデア。それを共有できる友達。 小野寺伝助さんの読書案内「クソみたいな世界を生き抜くためのパンク的読書。」 この三つさえ揃えば鳴らせるのがパンクという音楽の特徴で、小難しいテクニックは不要だし、楽譜など読めなくても何の問題もない。誰でもできる。それ故に、パンクカルチャーは10~20代の衝動に駆られた若者、青二才、クソ野郎共が生み出し、それに憧れたキッズ達がそのマインドを勝手に受け継いで進化させ、またその次のクソガキ共に受け継がれ、かれこれ40年以上が経過した。 そうすると、創世記の頃のパンクスはすっかりおじさんになっている訳で、今も変わらず続けている偉大な先輩もいるが、もう音楽活動を辞めている人も多い。なぜなら、年を重ねることで演奏技術や経験は蓄積されても、抑えきれない衝動は落ち着き、溢れ出ていたアイデアは枯渇し、友達は減っていくからだ。 慣れると、飽きる。 突き詰めると、限界にぶつかる。 突き詰めても、カネにならない。 ワクワクしない。疲れる。 パンクバンドに限った話ではなく、何か意思を持って始めたことについて、それを続けていく時、さまざまな葛藤や苦しみが伴う。趣味や娯楽なら辞めればいいだけの話だが、そこに情熱があり、それが自分のアイデンティティとなっているとそう簡単には辞められない。 かく言う私も20代の若きクソ野郎の頃からパンクバンドで演奏してきたが、歳を重ねるにつれ仕事や育児などの責任は増すばかりで、やりたいことを続ける困難さに直面している。酒は弱くなり、抜毛も増え、四十を前に惑いまくっている。 そんな時に松本大洋の『東京ヒゴロ』を読んで、魂が震えた。なぜなら、続けることの限界にぶつかったおじさん達が、それでも続けることを選択し、自らの理想を追い求め、葛藤や苦しみをよろこびに昇華させる姿が描かれていたからだ。 本書の主人公は30年間勤めた大手出版社を自己都合で退職した漫画編集者。独力で理想の漫画誌を創るべく、かつて関係した漫画家たちを訪ねては原稿を依頼し、すったもんだありながらも理想の漫画誌を完成させる、というのがこの作品の筋書だ。 描くことを続けながらも進むべき道を見失っている漫画家。魂を売ることで商業的成功はしたものの虚無を抱える漫画家。描くことを辞めて別の仕事で生計を立てている元漫画家。 登場する漫画家たちの人生には一癖も二癖もある。誰もが一度は限界にぶつかり、今も葛藤を抱えている。誰もがかつての輝きを失い、時代の中心から外れている。しかし、漫画への情熱の種火は消えず、心の奥底で燻り続けている。主人公の漫画編集者は、そこに薪をくべ、時に油を注ぎながら、再びその輝きを取り戻そうとする。 理想の漫画誌づくりは「採算度外視」だ。 採算、利益、商業的成功、マーケティング。そういったものに向き合うことが重要になるのはビジネスの土俵の上であって、芸術や文化、ひいては人間が生きることに重要なのは欲望や自由、没頭、高揚する精神。つまり己に向き合い、真に生きることだ。 パンクバンドの演奏にマーケティングが入り込む隙がないように、己に向き合った漫画家の表現に対して「採算」なんて言葉は無力だ。そしてそんな表現にこそ、人の魂を震わせる力が宿る。 年齢は関係ない。衝動やアイデアに溢れた若者や青春の特権ではなく、限界にぶつかって葛藤したり、諦めて一度は辞めた人間でも大丈夫。何回だってやり直せる。 「毎日を生きよ。あなたの人生が始まった時のように」 1巻の序盤、主人公がゲーテの言葉を引用して発したこのセリフが、読後じわじわ染みてくる。 資本主義社会の中で、利益や成功にとらわれず、地位や名誉に固執せず、自分らしさを見失わずに人間らしくあること。その困難さを感じながら、それでも生き続けることに意味がある。 何かを続ける人にも、何かを諦めた人にも、本書はもう若くないすべてのクソ野郎共にささげられた、人間賛歌みたいな作品だ。