黒沢清と濱口竜介の“師弟対談”をフルボリュームでお届け!『蛇の道』の演出術を隅々まで深掘り
黒沢清監督が1998年に発表した同タイトルの自作を、フランスに舞台を移し、柴咲コウ主演でセルフリメイクした『蛇の道』(公開中)。本作の公開記念トークイベントが6月16日、角川シネマ有楽町にて開催され、黒沢監督と、『ドライブ・マイ・カー』(21)や『悪は存在しない』(公開中)の濱口竜介監督が登壇した。 【写真を見る】アカデミー賞候補監督の濱口竜介が、“教え子”の立場で師匠・黒沢清に質問! 共にカンヌやヴェネチアなど、国内外から高い評価を得ている日本を代表する監督である2人。濱口は黒沢監督が東京藝術大学大学院映像研究科で教鞭を取っていた時の教え子であり、『スパイの妻 劇場版』(20)では黒沢監督がメガホンをとって濱口が脚本を担当するなど、“師弟関係”とも呼ぶべき間柄。今回のトークイベントは、濱口が『蛇の道』で気になったことをひたすら黒沢監督に質問していくという、講義さながらの形式で進められた。そんな師弟対談の模様を、ほぼノーカットのフルボリュームでお届けしよう。 ■黒沢清は“なにもしていない”をどう表現したのか? 濱口「黒沢さんのもとで学生として2年間学び、そのご縁でここにおります。本当に光栄です。まずは『蛇の道』のリメイク、公開おめでとうございます」 黒沢「ありがとうございます」 濱口「オリジナル版が大好きだという前提で言わせてもらいますが、なんでこんな嫌な話が存在するんだと思うぐらい、世界で一番嫌な話でした。その一方で、奇妙な爽快感も感じていました。今回もリメイクを楽しみに拝見して、また一本、世界で一番嫌な話が誕生したなと思っているところです。爽快感や突き抜ける感じを味わい、なにがあろうとも物語は淡々と進行していくのだという厳然たる事実をひたすら見せつけられました。そこで毎度のことで恐縮ですが、天気のことから話を聞かせてもらってもよろしいでしょうか?」 黒沢「はい」 濱口「柴咲コウさんが演じる小夜子のアパートで、彼女以外誰もいない部屋でルンバが動いていますよね。それが机かなにかに当たって往復する。その時に部屋に光が射してきたと思います。あれは照明なんでしょうか?それとも自然光で偶然そうなったものなのでしょうか?」 黒沢「あれは自然光ですね。ルンバはどこへ行くのかわからないので、数テイク撮りましたが、ずっと追いかけていくうちに自然にある光が入ってきたんです。なのでこちらで色々と仕組んだりはしていません」 濱口「それは驚きです。照明だと思っていて、このショットが成り立つ目算があって設計しているのかなと思っていました」 黒沢「そんな上等なことはなにも考えてなかったですね(笑)。ただ、ルンバを思いついた瞬間は『これでいける!』と思いましたね」 濱口「それはどういう判断でしょうか?」 黒沢「あまり理屈ではないのですが、脚本上は小夜子が自分の部屋にいる以外なにも書いていなかったんです。部屋で彼女がなにをしているのかは特に考えないままフランスに渡り、ずっと悩んでいたんです。普段彼女はなにをしているのか、わずかに垣間見える小夜子という人物の日常がなかなか思い付かず、本を読むとか食事を作るとか色々なパターンはありますが、考えた挙句に浮かんだんです。“なにもしていない”と」 濱口「それが彼女のキャラクターですものね」 黒沢「それで“なにもしていない”をどう表現するのかと考え、ルンバがいいと思ったんです。すぐにフランスのスタッフに『フランスにもルンバってある?』と訊いたら、幸いにも自動掃除機があったので、それを使うことにしました」 濱口「それがどこにどう動くのかわからない。小夜子の特にプライベートな側面において、これが正解なんだろうということですね」 黒沢「ほら、意外と悩むことあるでしょ?…濱口にはないのかな。脚本に何気なく『家にいたら電話がかかってくる』と書いてあって、電話の内容はあるけどかかってくる前はなにをしてましょうかと。急場凌ぎに適当なことをしたら、後々なんでこんなことをさせちゃったんだろうと後悔したり」 濱口「あると思います(笑)。もうひとつ天気の話をしますと、グレゴワール・コランさんが連れて来られた後、辺り一面が晴れていたのが急に曇るシーンがあります。雲の動きに関しては偶然だと思いますが、これもねらったものなのでしょうか?」 黒沢「偶然というか、これは日本でも外で撮影しているとたまにありますよね。天候が不順で、晴れか曇りかどっちで撮るかと悩むことが。それで晴れで回していたら途中で曇ってNGになる。今回はどうするかしばらく空の様子を見ていても安定しないので、もうカット内で変わるのをねらいましょうと切り替えました。なので最終的にねらったものです」 濱口「パリは天候が変わりやすいですからね。ルンバの話といい、偶然を捕まえてそれに対応しながらやってらっしゃたんですね。でも一つだけおそらく明らかに付けているだろうという音があって、ポスタービジュアルにもなっている緑一面のところで寝袋を引きずるロングショット。あそこで雷の音がしましたよね」 黒沢「はいはい、しましたね」 濱口「雨が降るのかなと思っていたら、次のショットは晴れている。降るのかなと思ったら降らない外しかたをされていましたが、この音づけはどういう意図で?」 黒沢「いや、思い付きですよね(笑)。あの雷は僕が入れてくれと言ったものではないんです。音響はレオス・カラックスの『アネット』にも参加したベルギーの方がやってくれたんですが、非常にノリノリで『ここ雷入れときました!おもしろくないですか?監督こういうの好きじゃないですか?』って入れてきたんです。なのでそんなに深い意図はないんですが、この映画では珍しく広々とした、都会ではないロケーション。その広さを少しでも表現しようというところから、遠雷を入れたんだと思いました」 濱口「それもやはり、黒沢さんからしてみると“外側”からやってきたものを…」 黒沢「まあ映画ですからね。映っている“外側”のものが影響してきますよね」 ■「撮影現場で撮れたものは、可能な限り大切にしたい」(黒沢) 濱口「ここで改めて伺いたいのは、黒沢さんにとって“偶然”はどの程度大事なものなのでしょうか?というのも、『Chime』を拝見して、本当に寒々とした荒野が拓けていくような映画に感じました。そのなかでは電車が通り過ぎる瞬間を明らかにねらっていて、それを映画の力に変えようとしていると感じたんです。今回の『蛇の道』でも照明を作っていると思っていたので、偶然よりも作り込むスタンスなのだろうと感じたのですが、実際のところはどうなのでしょう?」 黒沢「そんなに作り込んではいないですね。偶然晴れていたら晴れで、雨が降ったら雨。車のなかで2人がしゃべるシーンではたまたま雨が降ったりしていますが、なるべく偶然は偶然のまま、そのままでいいんだというスタンスです。最近はデジタル技術で雨が降っていても晴れているみたいに変えることができたり、天候は後で作るものだというぐらい大胆な発想で撮っていく人もいる。今回は『ダゲレオタイプの女』でも組んだアレクシ・カヴィルシーヌがカメラマンで、僕の好みをよく知ってくれていたので、現場の天候はなるべく活かす方向で、ちょっといじる程度で作っていきました。このちょっといじるのが本当に憎たらしいような作業なんです」 濱口「具体的にどの辺をいじったのか、言えることがあれば教えてください」 黒沢「曇っているといってもどんな曇りなのか。現場の曇りを活かしつつ、手前の人間だけはもうちょっと明るくしてみたりとか、逆に暗くしてみたりとか。目の辺りは見せたいとほんの少し光を足してみたり。後でどんなことでもできる。やりすぎるとアニメーションみたいになってしまうので、わずかだけやっています」 濱口「かつては照明で何時間もかけてやっていたものが、いまは現場でやる必要がなくなったと」 黒沢「まあ現場でもやってはいますけどね」 濱口「黒沢さんは現場で起きたことが自分にとって信頼が足るというか、進行させる物語そのものに奉仕するかということより、その場で起きたことに従いたいというのが基本なんでしょうか?」 黒沢「これは…すごく難しい、映画とはなんだろうということに触れる悩ましいものですね(笑)。撮影現場で起こったことは天候だけじゃなく、俳優がこういう台詞を言ったとか、色々なことがある。でも撮影現場で撮れてしまったものは、一回限りの非常に貴重なものなので、可能な限り大切にしたい、という考え方がどうも染み付いているんです。一回限りのフィルムに記録されたものは神聖であるという考え方で、全然そうじゃないと考える人もいますよね」 濱口「いかようにもいじってしまえばいいという」 黒沢「僕の経験では、フランスの方は割と後でどうとでもなるというタイプの人が多いです。台詞もアフレコでどんどん変えていったり、後ろに映っている人を邪魔だからとデジタルで消してしまう。僕はたまたま映ったならいいじゃないと、消す発想がそもそもない。台詞もよほどNGならやり直すけど、脚本と違っても俳優が現場で言ったものなら貴重だと思う方です。作った素材を次々と新しいものにクリエイトしていこうというのがフランスの映画の作り方で、僕はそれについていけないので、撮ったものをなるべく大事にしたい。現地のスタッフにそういうと、なるほどと認めてくれましたけど」 ■監督としても名高いフランスの名優が、“死体メイク”にノリノリ!? 濱口「フランスで黒沢さんと一緒にお仕事した人と話す機会があったのですが、本当にすばらしい経験だったと皆さんおっしゃっていました。本当に仕事が早い。毎ショットをワンテイクで撮っていくから、俳優に緊張感がみなぎっていくと。これはクリント・イーストウッドだなと感じました(笑)。俳優さん一人一人、特にメインの2人が本当にすばらしいですよね」 黒沢「それはもう、俳優の力は計り知れないものがあります。こちらの意図とか監督の技量を超えて、俳優の力は画面に映ってきますから。本当にすばらしかったし、皆さんよくやってくれました」 濱口「マチュー・アマルリックにあんな格好をさせて、はたしてフランスは怒らないのかなと(笑)。オリジナルでは下元史朗さんがやられていた役でしたが」 黒沢「皆さんご存知だと思いますが、マチューさんって偉い人なんです。監督もやられている方で、何人ものフランス人から『アマルリックによくあんなことをやらせたね』と言われました」 濱口「黒沢さんは同い年ぐらいなんですか?」 黒沢「僕よりも若いです。でもご本人はあの役に大喜びで、水かけられたりすると『もっとやってくれ!』と。途中でグレゴワールと拳銃を奪い合うシーンではカメラに映ってないのに取っ組み合いをしてくれましたし。有名な俳優になってくると、出演するといっても座って心理的な表現をするとか…濱口得意じゃん(笑)。“濱口的”な静かな台詞をどう表現するかというお芝居が求められることが多いなかで、いきなり走って水かけて拳銃を奪って転げ回ってくれとか、滅多に注文がないようで。死体のメイクも楽しんでいました」 濱口「ノリノリな感じが伝わってきましたね」 黒沢「マチューさんもグレゴワールも、スリマヌ・ダジも、みんな死体のメイクをするとゾンビの真似するんだよね。必ずそれで写真撮ってるし(笑)」 ■「黒沢さんは、“世界はそういうものだ”という表現をやられている」(濱口) 濱口「改めてメインのお二人についても聞いていきたいのですが、柴咲さん。“蛇の目”と言われていますが、この作品を締めるのも彼女の目ですし、きっと勘の良い人で黒沢さんのビジョンとどう共鳴しているのか探っている感じがあって、威厳を持ってこの映画のなかに存在していました。ダミアン・ボナールも本当に素晴らしい。彼が急に笑い出す瞬間が怖いというかとても不安になりますし、オリジナルでの香川照之さんの顔も凄かったですが、それとは違う方向性の複雑な表情をされていました」 黒沢「お二人には感謝しかないですね。ダミアンは次どうなるのか待っているシーンが多くて、全身から滲み出るように所在なげに待っている感じがすばらしかった。柴咲さんは、ナイフ投げたりペットボトルの蓋をパッと投げたり、あれ良くないですか?」 濱口「大画面じゃないとわからないところですよね。2人の関係には、オリジナルとはまた違ったものがありますよね」 黒沢「脚本の時からねらったというわけではないのですが、男女にしただけで、男2人だったオリジナルのようにドライな関係だけど、時々妖しい感じになる。この後2人はどうなっちゃうんだろうという微妙な気配が自然に漂ってきました」 濱口「もう一つ聞きたいのは、観客との間にズレをあえて起こしている作品だと思ったことです。“蛇の目”と言った瞬間、観客はそれを見たいのにカメラは寄ってくれなくて、死体が映る場面でも指差す前に映ってから戻ってきて指を指す。観客の期待とズレがある。それが極まったのはジムの場面で、リアリティで考えたらかなり危うい。そこにリアリティがないとツッコミを入れる人もいると思うのですが、それもいいと思うのが黒沢さんのスタンスなのかなと。なので、ひとりの教え子として改めて伺いたいです。劇映画とリアリティは、どう付き合っていけばいいんでしょうか?」 黒沢「これはね……割とどうでもいいんです(笑)。あることをすごく変だという人もいれば、こういうことあると思う人もいる。“リアリティ”ほど怪しい言葉はないんです。自分の信じるリアリティに沿うことは、監督だから仕方ないこと。映画を作るためにはなんでもいいから基準を設けないと先に進めないので、そのために監督がいるんです。変だと思う人もリアルだと思う人もいて、リアルじゃないけどおもしろいこともあるし、リアルでもつまらなかったと思う人もいる。その程度のものだと思います」 濱口「おもしろさとリアリティは究極のところ、関係がないものと」 黒沢「とはいえ映画ですから、監督が信じること、一般的かどうかというある種のリアリティはワンカットごとに追求していくべきだとは思います。それがリアリティではない、作家性というか、その映画の個性になっていく。……なんで講義してるんだろう(笑)」 濱口「ありがとうございます(笑)。最後に、『Chime』と『蛇の道』を拝見し、秋には『Cloud クラウド』が控えている。黒沢さんは、いま本気で世界に悪意を撒き散らすつもりなんだなと思いました。1990年代や2000年代にはそういうところもあったと思いますが、キャリアのここに至ってもう一回悪意というか、世界はそういうものだという表現をやられていると思いました。本当に楽しみにしています」 黒沢「そう言っていただけるとうれしいです。悪意を、というほど悪者でもないですが、映画ですから、たかがフィクションですから。映画のなかで起こっている悲惨な出来事はすべてフィクションで、こういうこともありうるとその場で楽しんでいただければ、それが映画の大きな楽しみのひとつだと信じております。怪獣映画を観て育った身としては、怖いことこそ映画のおもしろさであると信じておりますので、それを続けています」 取材・文/久保田 和馬