ハリポタ図書館で読書にふけったアダム・スミス、生誕300年の今も英国で受け継がれる精神
この中で最も有名な一節は、一人一人が自分の利益を追求すれば、見えざる手に導かれるようにして結果的に社会全体に富がもたらされるとの考えを提唱した「見えざる手」だろう。 国内産業を保護し、輸出の促進を通じて金銀を蓄積することで富の増大を目指す重商主義や植民地主義を批判した。この教えは資本主義社会発展の理論的な支柱となり、自由貿易が興隆していった。 ▽評価巡り論争は今も続く スミスは自由競争貿易を訴える一方で、教育など国家が果たすべき役割や道徳の重要性も主張していた。単純な市場放任主義者ではなかったが、「自由市場の擁護者」「市場原理主義者の権化」などと、その評価を巡る論争は今も続く。 当時の英国は既得権益が守られ、その代表的な存在が国家の手厚い保護の下で貿易を独占した東インド会社だった。スミスは見えざる手という言葉に、英国の古い政治や経済体制を批判する意味合いを込めたとも解釈できる。
「『神の』見えざる手」と言及されることもあるが、スミス自身は「神の」とは記していない。グラスゴー大のリアック教授は、キリスト教を信仰する読者が、神が全てを導くという「神の摂理」の思想を重ね合わせた結果だと推測する。「スミスが興味を持っていたのは、意図しない出来事から何らかの秩序が生まれるという考えだった」と解説する。 ▽旧居宅を再建し、討論の場に スミスは1778年、スコットランドの税関委員に任命され、エディンバラに移り住んだ。世界遺産に登録された美しい街並みの象徴が、岩山に築かれた要塞エディンバラ城だ。その城から海に向かう長い長い坂道を下る途中に、スミスが1790年に亡くなるまで過ごした パンミュアハウスが残されている。老朽化したハウスを地元のヘリオット・ワット大が2008年に購入し、社会問題を討論する場として10年かけて再建した。 スミスが日曜日に夕食会を催し、友人を招いて意見を交わしたことに着想を得たという。ハウスのプログラム・ディレクター、キャロライン・ハウィットさんは「スミスは第一に教育者だった。自分の考えを示し、議論することを好んだ。私たちは、この場所を単なる博物館にしたくはなかった」と語る。