ハリポタ図書館で読書にふけったアダム・スミス、生誕300年の今も英国で受け継がれる精神
▽再びグラスゴーへ。「幸せで名誉な時期」 スミスは充電期間を終えた後に表舞台での活動を始め、エディンバラで公開講義を行った。その内容が評判を呼び、1751年に論理学教授としてグラスゴー大に戻った。翌年には、恩師ハチソン教授が務めていた道徳哲学教授に転任した。 植民地だった北米やロシア、スイスから留学生を呼び込む人気講義となり、代表的な著作「道徳感情論」もこの時代に刊行された。スミスは話した内容を生徒がノートにひたすら書き写すことを好まなかった。講義を集中して聴き、その内容を深く考察することを求めた。 当時は教授の人数が少なく、スミスは大学で図書の担当も務めた。この時に購入された蔵書は今も大学図書館に残されている。道徳感情論の初版本やスミスの手紙もあり、生誕300年を記念して公開された。 スミスは晩年、ここで過ごした日々を「私の人生で最も有意義で、だからこそ最も幸せで名誉な時期だった」と振り返っている。
▽貴族の家庭教師として欧州旅行 1764年、スミスは13年間務めたグラスゴー大を退職した。貴族の家庭教師として欧州旅行に随行するよう強く求められたためだ。葛藤はあったが、外に出て見聞を広めることを決めた。 欧州各地を巡り、農業振興を訴えた「重農主義」を広めたフランスの経済学者フランソワ・ケネーら時代の先端を走る思想家と交流し、刺激を受けた。ただ、南フランスでの日々はつまらなかったようで、親友の哲学者デイビッド・ヒュームに送った手紙で「子供たちは物事を知らず退屈だ。だから僕は時間をつぶすために本を書き始めた」と伝えている。その後、書き上げたのが歴史的な名著となる「諸国民の富」だった。 ▽見えざる手 諸国民の富は1776年に刊行された。スミスの名声は英国のみならず欧州にも届き、初版は半年で完売になった。 日本では以前、「国富論」と呼ばれた。国富だと経済発展を通じて軍事力の強化を図る明治政府の「富国強兵」のイメージと重なるが、今では諸国民の富と言われることが多い。