「結論が出たのは、前日の夜でした」箱根駅伝2区で“伝説の17人抜き”…東海大・村澤明伸が振り返る、12年前「走れなかった最後の箱根路」秘話
最後の予選会…大エース兼主将の出場は?
アキレス腱のケガから復帰途上にある村澤を予選会に出場させるかどうか。その判断は予選会直前になってもまだ決まっていなかった。予選会が行われるのは、立川市内の昭和記念公園である。前日、立川のホテルにチーム全員が集合したが、そこでも両角監督から村澤の起用についての説明はなかった。この時点で選手の多くは、エースが出場すると思っていただろう。 「直接は聞いていなかったですけど、おそらくそう思っていたでしょうね……。でも、本当にギリギリまで監督も悩んで、結論が出たのは予選会前日の夜でした。私と監督、当時の陸上部長、それにずっと見ていただいていたトレーナーさんと4人で、ホテルの一室で話し合ったのを覚えています」 村澤自身は、何も言うことができなかった。 「練習で20km走れても、レースペースで走れるかはわからなかったですし、足が持つかどうかの自信もなかった。とはいえ、走ってくれと言われたら走るしかないなって。多分、そこに自分の意思はなくて、結論を委ねてしまった。もう本当に話が進まない状態になって、部長さんが最後に『(出場は)辞めよう』と言って下さった。それで決まった感じです」
村澤の中に残るのは…後悔ではなく「深い反省」
村澤の欠場が選手に伝えられたのは、レース当日の朝だった。会場の公園内に入ってから主将の欠場が告げられる。他の選手が動揺したのも無理はないだろう。そのことに対して、村澤は今も申し訳ない気持ちがあるという。 「もっと早くに伝えられたら良かったと思いますね。それは後悔ではなく、深い反省としてあります。あの時、どちらかの選択肢があって、もし自分で選んでいたら後悔をしたかもしれない。でも実際は、難しい選択を皆さんに委ねてしまった。だから、私の中では後悔ではなくて反省なんです」 レースが始まると、村澤は公園内の沿道から選手たちに声援を送った。だが、主力を欠いたチームはどこかちぐはぐで、終盤になっても順位はいっこうに上がってこなかった。 そして、手応えを掴めないまま結果発表の時を迎える。日体大がトップ通過を果たし、大東文化大が3年振り、日大が2年振りの本戦復帰を果たす中、東海大の名前は通過9校までに呼ばれなかった。ようやく順位が確定したのは、12位の校名が読み上げられた時だった。 連続出場の記録は40でストップ。40年という歳月の重みは相当だが、当時の村澤はそれすらも深刻に受け止め切れなかったようだ。 「なんとなく覚えているのは、なんかの間違いじゃないかなって。もう結果も出ているんですけど、現実という風にとらえられなかったです。そこで最後の箱根駅伝が終わったことにも気づいていなくて、それを受け入れるまでに、いや理解するまでにかなりの時間が必要でした」 結果的に4年生の駅伝シーズンは、出雲駅伝にも全日本大学駅伝にも、村澤は出場することが叶わなかった。もう二度と巻き戻すことのできない時の残酷さを目の当たりにしたのは、翌年、箱根駅伝が終わった直後のことだった。 <次回へつづく>
(「箱根駅伝PRESS」小堀隆司 = 文)
【関連記事】
- 【つづき/#3を読む】「恩返しが何もできていないので」箱根駅伝で“伝説の17人抜き→40年ぶり予選落ち”の波乱万丈…東海大・村澤明伸(33歳)が今も現役を続けるワケ
- 【貴重写真】あの2011年箱根駅伝2区「伝説の17人抜き」が写真で甦る…「全然変わってない!」33歳になった“ごぼう抜き男”村澤明伸の現在も写真で見る(30枚超)
- 【最初/#1を読む】「涙は出なかったです」箱根駅伝で“伝説の17人抜き”…東海大・村澤明伸が明かす「12年前の悪夢」 大エース擁した名門が“40年ぶり”予選落ちのナゼ
- 【あわせて読む】あの「黄金世代」から5年…東海大まさかの落選 「留学生級」スーパーエース抜きの東農大は1秒差で涙…箱根駅伝“大波乱の予選会”はなぜ起きた?
- 【こちらも読む】箱根駅伝2区で“17人抜き”した男・村澤明伸30歳の今「(大迫傑と)どんどん差は開いていく」「医師の指示で、一度完全に走るのをやめた」