「結論が出たのは、前日の夜でした」箱根駅伝2区で“伝説の17人抜き”…東海大・村澤明伸が振り返る、12年前「走れなかった最後の箱根路」秘話
青学大の連覇で幕を閉じた101回目の箱根駅伝。一方で、その舞台に箱根路の常連である“湘南の暴れん坊”東海大の姿はなかった。昨秋の予選会でアクシデントもあり、まさかの予選落ちを喫したからだ。実はその12年前、最後に同じ悔しさを味わったのは、あの“17人抜き”の伝説のエースが主将を務めた年でもあった。33歳になった本人が振り返る、かつての記憶とは。《NumberWebインタビュー全3回の2回目/つづきを読む》 【貴重写真】あの2011年箱根駅伝2区「伝説の17人抜き」が写真で甦る…「全然変わってない!」33歳になった“ごぼう抜き男”村澤明伸の現在も写真で見る(30枚超) 2009年に東海大に入学した村澤明伸(現SGホールディングス)は、佐久長聖高時代から全国トップ級だった期待に違わぬ結果を残し続けていた。 大学2年の夏は世界ジュニア選手権に出場して、5000mで8位入賞。翌年の箱根路でも、チームの順位を20位から3位まで押し上げた「花の2区」での“伝説の17人抜き”区間賞を獲得するなど、ファンの記憶に残る走りを続けていた。
大学4年時の合宿で痛めた「左アキレス腱」
そんな順風満帆だった村澤の陸上人生に大きな躓きが起きたのが、2012年、大学4年時に紋別で行われた夏合宿でのことだった。 それまで大きなケガとはほぼ無縁だったが、練習中に左アキレス腱を痛めてしまったのだ。思い返せば、故障となる予兆は以前からあった。 「実業団の練習に参加した頃からですね。違和感はずっとあって、それが紋別で爆発した感じです。医者の診断では、周囲炎ではなくてアキレス腱炎だろうと。かなり腫れていたので、時間はかかるとも言われました」 どんなケガもまずは安静にすることが一番だ。無理をせず、腫れが治まるのを待ち、慎重に慎重を重ねて治療に努める。だが、当時の村澤にはその選択ができなかった。 腫れが引けば、騙しだましでも走ってしまう。痛くて走れない状態ではなくなったため、つい無理をして別メニューを組んででも一人で走った。 「あそこで休んでおけば良かったと言うのは、間違いなくそうです。ただ、その当時はそういう判断ができなかった。それも含めて、自分の能力不足でした」 休まなかったのは、村澤が主将だったからでもある。これまでチームの練習に加われていなかった分、しっかりと主将としての責任を果たしたいと考えていた。自分が力になれるのは何か。走ること以外に思い浮かばなかったと話す。 「たとえ走れても良いパフォーマンスができる状態ではなかったので、そこはもっと冷静になれていたら良かったと思います。ただ、その時まで駅伝に対してあまり考えてこなかったので、チームのためにできることが走ること以外に浮かばなかった。それこそ、個人戦であればスパッと休めていたのかもしれないですけど、この頃はもうチームのために駅伝を走りたいって風に気持ちが変わっていましたから」 チームのキャプテンとして、あるいはエースとして、最後の箱根駅伝に向けてやるべきことは明白だった。チームを本戦出場に導くことだ。前大会でシードを落としていた東海大は、秋の予選会をまずは通過しなければならなかった。チーム状態は決して好調ではなく、村澤以外にも主力選手にケガ人が相次ぐ中で、大きな決断を迫られていた。
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