時速300キロを夢見たスーパーカーの時代
クルマにとって速度とは何だろうか? この世の全ての交通手段は人が徒歩で移動するより、楽で速いことを目指している。 【写真】中東戦争が“生んだ”ミニとゴルフ もたらされたFF車「革命」 実はそれはクルマだけではない。ネットの接続速度だってパソコンの演算速度だって速い方が良い。何故なら人の寿命は有限だからである。時間ほど高価なリソースは無い。それをお金で買うために人は高価な機械技術を次々と生み出して行ったのだ。 しかしコンピュータとクルマは違う。クルマで速く移動しようと思えばリスクが発生する。限られた寿命を有効に使おうとして、事故で命を失うのでは本末転倒だ。安全は無視できない。だから制限が付く。「安全である限り」速い方が良い。「速度」の話は常に「安全」とセットになる。
■速さと安全
では「安全」とは何だろうか? 安全は大事だ。前述の様に人命に関わるからだ。しかし、平和な国では安全の価値が時に暴走する。それはかつてハイジャック事件に際して、福田赳夫元首相が発した「ひとりの命は地球よりも重い」という言葉を想起させる。 先日とある自動運転の技術説明会で説明を聞いていた一人が「自動運転のクルマが通学中の小学生に突っ込むようなことは、万が一にもあってはいけない」と発言した。その考え方の尊さを認めないとは言わないが、ならば、人によって運転されるクルマが小学生の列に突っ込む事故が起きている現状をどう整理するのだろうか? そういう尊い精神を全てに優先させるのだとしたら、自動車は今すぐ禁止にすべきだということになる。自転車でも死亡事故は起きている。これも禁止にすべきだろう。そんなことが可能だろうか? われわれは常に許容できる範囲を定めて、社会に一定の危険を織り込むことで、文明の利器がもたらす利益を享受してきた。 技術に完全な無謬性を求めるのは間違いだ。現実を冷静に見れば、セキュリティとは常にコストとの兼ね合いで成立している。コストと言うとお金のことを考えるかもしれないが、時間や手間も立派なコストだ。 例えば新幹線でテロを防止するには、少なくとも航空機搭乗手続き並みのセキュリティチェックをしなくてはならない。その手間と時間は、全ての利用者が支払うことになる。ショッピングモールやコンサートホールは? 妥協のない安全を求めるならばわれわれは無限にコストを払っていかなくてはならないのだ。 つまり過度の安全意識は社会の快適性を削ぎ、かえって人の人生の有効時間を短くしてしまう。もちろん安全意識が足りなければ、それもまた事故の多発によって社会の快適性を削ぐことになるだろう。要するにどちらか一方に与しただけでは思考停止にしかならない。速度と安全がセットであるように、安全とコストもまたセットなのだ。 予見上、一定の頻度で起こり得るリスクに対し、妥当なセキュリティをローコストで持つことができれば、我々はもっと快適な社会を手に入れられるはずなのである。問題の制約ポイントがコストであるならば、技術の進歩によってそれを改善できる可能性は高い。だから技術の進歩に対してもっとポジティブになってもいいのではないかと思う。ご理解いただいていると思うが、技術を万能視しろと言っているわけでは無い。慎重なチェックは必要である。ただ、原則的に技術は未来を明るくするものだという見方であるべきではないのだろうか? 速いことは悪ではない。安全が許容レベルを超えてはいけないだけなのである。