「君の会社、ゴミを作ってるようなもんだね」 心ない言葉で失意の底に、それでも大地震で気付いたパッケージの価値
「売れる商品パッケージ」を生み出す企業として注目を集める「株式会社パッケージ松浦」(徳島市)。父が創業した同社に、20代後半で入った長男・松浦陽司氏(50)は、業界の伝統の「頭と価格を下げる」営業を進めたが、経営を圧迫して大赤字に。さらに、取引先から「ゴミを作っている会社」と言われ、仕事そのものが嫌いになってしまった。しかし、社長を継いだ後、ある大災害を機にパッケージの価値に気づき、「売れるパッケージ」への改革を始める。松浦氏に経緯を聞いた。 【動画】なぜ事業承継が大切なのか専門家に聞いた。
◆「人前でしゃべれるようになれ」「いい大学に行け」
----パッケージ松浦について教えてください。 私が中学2年の時、父の叔父が経営するパッケージ会社から両親が独立し、パッケージ松浦を立ち上げました。 いずれは叔父の会社を父が継ぐはずでしたが、話がなくなったため独立したそうです。 創業期はバブル時代だったので、営業すれば注文が入り、経営は順調だったようです。 ----小さいころから後継者という意識がありましたか。 私は3歳下の妹と2人兄弟です。家庭全体が、将来は私が継ぐという雰囲気で、特に反発なく受け入れていました。 父からは、「人前でしゃべれるようになれ」「ディベートクラブに入れ」「本を読め」などと言われ、著名人の講演テープを渡されたりしましたが、父の言うことは全然聞かない息子でした。 父は、学歴にかなりこだわっていました。 「お前が行ける範囲で一番いい大学に行け」と言われ、物理と数学が得意だったので広島大学理学部に入学しました。
◆大手パッケージ会社で営業を担当
----大学卒業後は家業に入らず、ほかの会社に勤務されたそうですね。 両親が「大きい会社で修行してこい」というので、大学を卒業した1997年、大塚包装工業株式会社に入社しました。 パッケージの箱などを作る大手企業です。 同じパッケージ業界ですが、うちは工場機能を持たずメーカーから仕入れて売る卸売業で、大塚包装工業は工場を持つメーカーです。 新入社員の頃は、3か月くらい工場に勤務し、その後は広島営業所で山口県担当の営業をしていました。 大塚包装工業では箱ばかり扱っていたので、パッケージ松浦に戻ったとき、本業の「袋」のことは何も分からず、父に「お前は一体、何を学んできたんだ」と怒られました。 ---大塚包装工業に5年勤務した後、パッケージ松浦に入社していますが、そのきっかけは? 「30歳までは外で修行しろ」という話だったのですが、パッケージ松浦の空気が悪くなっていたので、「早く帰ってこい」という父の要請がありました。 当時、営業部長に問題がありました。 営業成績はすごく優秀で、顧客に対してはすごく朗らかだったのですが、社内と仕入れ先には怒鳴り散らすようなタイプでした。 このため、社内の雰囲気が悪くなっていたのですが、営業の実績があるから、父も文句が言えなかったようです。 だから、「私に会社の主導権を取ってくれ」という思いがあったのではないでしょうか。