<”乱立”自民党総裁選の見方>リーダーに必要なスキルとは?武士の時代から学ぶ“決断力”の磨き方
十言を一言で言おう
対話・討論ということが、最近特にやかましくいわれている。それは、相互理解を深めるために重要ではある。しかしそれが万能薬であるとはいいきれない。もう一度原点に立ちかえって考えてみる必要がある。 奉公の心がけをする時分、内にても外にても膝を崩したる事なし。物をいはず。言はで叶はざる事は、十言も一言で済ます様にと心がけしなり。山崎蔵人などかくの如きなり。 (現代語訳) 奉公の修行をしていた頃、内でも外でも膝を崩したことはなかった。物もいわず、どうしてもいわなければならない時は、十言を一言ですますように心がけたものである。山崎蔵人などはこのような人物であった。 言論の自由ということは、おしゃべりの自由ということではない。この自由をあまりにも浪費をしすぎるために、ホンネが伝わらないことがある。 人間関係をよくするという美名のもとに、おしゃべりが多すぎ肝心な仕事がおろそかになることさえある。以心伝心、つまり口でいわなくとも心が通じる工夫というものが大切である。 十言を一言ですますことは、能率がよいばかりでなく正確なものである。短くして、しかもいうべきことをいうには、相手の意見をよく聞かなければならない。その態度から一種の風格も出て説得力も生まれてくる。その逆に、おしゃべりが多すぎると、枯葉のざわめきのように、かえってうとんじられ説得力を欠くものとなる。リーダーにはいうべき時と、いわざる時の心得も必要である。
七息思案 ――七息つく間が決断のポイント
ことにのぞんで慎重でなければならないのはいうまでもない。ところが、この慎重ということが、なかなかのくせものである。もともと慎重を期すことは、当人にとっては重要な事柄についてである。重要であるからこそ慎重でなければいけないともいえる。そしてこの慎重の裏側をのぞけば、迷いであることが多い。慎重と迷いは、同じものを角度をかえて見ているにすぎないのではあるまいか。 古人の詞に、七息思案と云ふことあり。隆信公は、「分別も久しくすればねまる。」と仰せられ候。直茂公は、「万事しだるきこと十に七つ悪し。武士は物毎手取早にするものぞ。」と仰せられ候由。心気うろうろとしたるときは、分別も埒明かず。なづみなく、さわやかに、凛としたる気にては、七息に分別すむものなり。胸すわりて、突っ切れたる気の位なり。 (現代語訳) 古人の言葉に、『七息思案』というのがある。竜造寺隆信公は、『考えることも長くすると腐ってしまう』といわれた。また鍋島直茂公は、『万事ぐずぐずしていることは、十の内七つはうまくいかない。武士はものごとを手っ取り早くするもの』といわれた。 気持ちがうろたえている時は考えもまとまらない。流れるように、さわやかに、リンとした気持ちでいれば、七つ息をする間に考えはまとまるものである。腹がすわって、スキッとした気構えである。 七つ息をする間に結論を出せ、というのであるから迷っている間さえない。複雑に考えればますます複雑になり、単純に割りきればそれまでのものである。現実の生活というものは、やるかやらないかのどちらかでしかない。調査・研究の重要さを否定はできない。しかし、それにはおのずから限度というものがある。市場調査・アンケートなどいろいろな方法で他人の意見を聞くことが盛んに行われている。時によっては現実と大きくズレることがある。 現実というものは、やってみなければわからない部分の方が圧倒的に多いのである。それをぐずぐずしているのは惜しいことである。リーダーたる者はリンとしたところがなければならない。 会議や討論会などで「慎重に審議すべきである」などという意見が出されることがある。一見立派な意見のようにみえるが、内実は正面から否定できないので、婉曲に反対を表明したものである。国会などでもそのようなことがよくいわれている。 なぜこのようなことになるかといえば、自信の欠如からである。自分の意見を堂々と表明できない臆病のためである。「七息思案」とは対極の姿である。 現代はそれだけ気力が衰えたということができる。朝食を抜かして、体力が萎えているからである。男が女脈になっているからである。マラソンが流行っているから体力がついているかと思うが、実態はそうではない。 肉体の筋肉は発達しているが、心の筋肉が成長していないのだ。キレやすい若者はとくにそうである。ここでも、武士道が必要とされるのである。心の鍛錬が必要なのである。
青木照夫