「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・柏木⑧ 道ならぬ恋に心を乱し、身を滅ぼしていいものか
輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。 NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。 この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 5 』から第36帖「柏木(かしわぎ)」を全10回でお送りする。 【図解】複雑に入り組む「柏木」の人物系図
48歳の光源氏は、親友の息子である柏木(=督(かん)の君)との密通によって自身の正妻・女三の宮が懐妊したことに思い悩む。一方、密通が光源氏に知れたことを悟った柏木は、罪の意識から病に臥せっていく。一連の出来事は、光源氏の息子で柏木の親友である夕霧(=大将)の運命も翻弄していき……。 「柏木」を最初から読む:「ただ一度の過ち」に心を暗く搔き乱す柏木の末路 ※「著者フォロー」をすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。
■ただひとり光君だけが心の内で 若君の乳母たちには、身分も高く容姿のすぐれた者ばかりを選ぶ。光君は彼女たちを呼び出して、若君に仕える上での心得などを言い聞かせる。「かわいそうに、私の命も残り少なくなった今、これから育っていくなんて」と抱き上げると、まったく人見知りすることなくにこにことして、ぷくぷくと太り、色白でかわいらしい。光君は大将の幼い頃をかすかに思い出すが、似てはいない。明石の女御が産んだ宮たちは、みな父である帝の血筋を引いて、皇族らしく気高いが、とくべつ抜きん出てうつくしいということはない。この若君は、たいそう気品があるのに加えて、愛くるしく、目元がほのぼのとうつくしく、にこにこしているのを、光君はじつにいとしく思うのだった。そのように思って見るせいだろうか、やはり督の君によく似て見える。もう今からして、まなざしが穏やかで、こちらが気後れしてしまう様子も並々ならず、香り立つようなうつくしい顔立ちである。母の尼宮はそこまでは見分けておらず、ほかの人はもちろん知るよしもないので、ただひとり光君だけが心の内で、「ああ、はかない運命の人だった」と思い、まったくこの世はさだめなきものだとつい考えてしまい、涙がほろほろとこぼれてくるのだが、「おめでたい今日は、縁起でもないことを口にしてはいけない日なのに」と涙を拭っている。五十八歳にしてはじめて子を持った白楽天(はくらくてん)が詠んだ詩の一節、「静かに思ひて嗟(なげ)くに堪へたり」と口ずさむ。光君はその年齢より十歳若いけれど、人生も終わりに近づいてきた気がして、しみじみと感慨を覚えずにはいられない。同じ詩にあるように、「汝(なんぢ)が爺(ちち)に似ること勿(なか)れ(おまえの実の父に似るのではないよ)」と、釘を刺しておきたくなったのかもしれません……。