未経験から「宮古島トライアスロン」日本人女性初の優勝へ! 勝又紀子が感じた“レースの喜び”(小林信也)
「創刊する『ターザン』で面白いことやりたいね」、東銀座の編集部で石川次郎編集長が言った。僕はすぐ答えた。 【写真をみる】パリ五輪にも同行! ニナー賢治選手と高橋侑子選手と並ぶ勝又(現姓山倉)紀子さん 「トライアスロンのチームを作りませんか。読者からメンバーを募集して!」
「いいねえ、それやろうよ」 次郎さんは表情を輝かせた。マガジンハウスの新雑誌創刊企画は、1986年7月23日号に告知が載った。 〈「ターザン」トライアスロン・チーム発進! 求む、チャレンジャー。 「ターザン」編集部は、国内および国際的なトライアスロン・レースへの挑戦を決意し、“チーム・ターザン”を発足させます。この“チーム・ターザン”を構成するのは、読者の皆様です。無名、未経験の新人(男女各若干名)とともに、世界の最高峰を目指すという胸躍るチャレンジです。〉 次の号に〈トライアスロン国際大会優勝を目指して〉と題して応募用紙が掲載され、募集が始まった。 ハワイ・アイアンマンの情報が日本に伝わり、トライアスロン完走を目指す気運が高まっていた。国内レースはいずれも定員オーバー。「抽選に当たらない」「出たくても出られない」悲痛な叫びが聞こえる状況だった。 約1カ月後、応募は758通に達した。強化担当で84年ロス五輪ではカール・ルイスの4冠達成をサポートした白石宏トレーナーとヘッドコーチの僕が中心となり書類で20人を選んだ。
ヒーロー工房
アイアンマンの10分の1の距離で選考レースを行った。男子13名、女子7名の中には、他競技で実績のあるアスリートもいた。 僕はたった一つの光景を鮮明に覚えている。 自転車の上り坂、頂上まであと少しの急坂でふらふらと倒れそうな女子選手の後ろ姿があった。いかにもロードレーサーに乗る姿がぎこちない。と、不意に彼女がこちらを振り向き、目が合った。怒っているような、困っているようなまなざしに胸を射抜かれた。その瞬間、僕は決断した。 (この選手とやりたい! ) それが勝又紀子だった。当時22歳。元シンクロ選手。競泳、自転車、ランの経験は一切ない。 最終的に勝又を含む6名を選ぶ時、次郎さんが言った。 「すごい人たちがたくさんいたね。でも、チーム・ターザンはあくまで“これから”っていう人たちにしようよ。読者と一緒に手作りでレースに挑戦する、そんな感じ(スピリット)を大切にしたいから」 活動期間を2年と決めて始動した。選手は週1度、白石と僕の拠点、後に鈴木大地、斉藤仁、有森裕子、伊達公子らも通った伝説の治療院「ヒーロー工房」に集まり、練習状況を確認。次の練習メニューを決めた。 三十数年ぶりに会った勝又(現姓山倉)が振り返る。 「私はがんばった経験がなかったから、毎日の練習で自分が変わるのが楽しかった。勝ちたいとか、誰かに負けたくないとか、そんな気持ち、最初はなかった」 相変わらず力みのない調子で彼女は笑った。 女子3名は国内大会で権利をつかみ、1年目からアイアンマン出場を果たした。勝又は13時間54分37秒で完走。そして2年目、 「トライアスロンが楽しくて楽しくてたまらない。やればやるほど好きになる」 力むことなく言っていた勝又の表情に陰りが見えた。 「勝又さんが、どうも元気がないんよ」、白石トレーナーが首をかしげた。体調に問題はない。そんな勝又に、日本平国際大会から招待選手の通知が届いた。途端に、彼女に元気が戻った。 「次のレースまで遠過ぎて、練習に身が入らなかった」 勝又の戸惑いは、勝負に目覚める前兆だった。覇気を取り戻した勝又は競技を始めてわずか1年半、日本平国際大会で優勝を飾った。