ネット上で目立つ「みっともない昭和人間」の正義中毒
「昭和」が終わって三十数年。あなた自身が「昭和人間」の場合も、身近な「昭和人間」についても、取り扱い方にはちょっとしたコツが必要です。「昭和人間」ならではの持ち味や真価を存分に発揮したりさせたり、インストールされているOSの弱点をカバーしたりするために、有効で安全なトリセツを考えてみましょう。今回は昭和の時代にはなかった「インターネット」の困った影響について。 昭和の時代にはまったく存在していなかったのに、今はインターネット(以下、ネット)なしの生活は考えられません。パソコンなりスマホなりを通じて、メールやLINEなどの通信手段の恩恵を受けられるのも、ニュースや気象情報を簡単に取得できるのも、SNSやゲームを際限なく楽しめるのも、みんなみんなネットのおかげです。 生まれたときからネットがあった若者と比べて、昭和世代は今の時代の便利さをより深く感じているはず。いっぽうで、どんなことも「当たり前」になってしまうと、ありがたみを忘れてしまうのが人間の常。たまにシステム障害が起きたりして、ちょっとのあいだ便利さに制限がかかると、イライラして大騒ぎしているのはむしろ昭和人間です。 我慢がきかないお年ごろなのか、「科学の進歩」や「便利な世の中」への期待値が大きすぎるのか、そのへんはよくわかりません。反射的に「おいおい、勘弁してくれよ」と思う気持ちはわかりますが、怒りや非難の言葉を口に出したり、したり顔で「犯人捜し」に精を出したりするのは、ひじょうにみっともない姿です。「ま、たまにはそういうこともあるよね」とおうような態度を取るのが、昭和人間の務めであり貫禄と言えるでしょう。 そのくらいならまだかわいげがありますが、ネットが昭和人間に及ぼしている悪影響は、じつは際限がありません。程度の差こそあれ、多くの昭和人間は、ネットに振り回されて「みっともない人」になりがちです。しかも、はた目から見て「みっともない度」が高い人ほど、ネットに振り回される気持ちよさに溺れて、厄介な泥沼にズブズブと沈み込みながら、都合よく美化したセルフイメージを抱いていたりします。 ネットという強大な存在は、スキあらば私たちを「ダークサイド」に引き込もうとしていると言っていいでしょう。どんな影響を受けているのか。どう逃れればいいのか。ネットに振り回されている身近な昭和人間と、そして自分自身と、どう付き合えばいいのか。令和を生きる上で避けて通れない課題に果敢に立ち向かってみましょう。 ●誹謗中傷に熱心なのは中高年 「ネットのダークサイド」と聞いて、まず思い浮かぶのは「誹謗(ひぼう)中傷」「バッシング」「炎上」といった現象です。犯罪や不倫など「悪いこと」をした標的に対して、どこからともなく湧いてきた大勢の人たちが、匿名で寄ってたかって汚い言葉を投げつける――。罪の重さに見合った仕打ちかどうかは、たいした問題ではありません。そもそも、どの事案にしたって責めている人たちには関係ない話です。 悲しいことに私たちは、そういう光景をいつの間にか見慣れてしまいました。誹謗中傷を受けた人が、自ら命を絶ってしまうケースも多々あります。それでもなお、攻撃はやみません。あらためて考えてみると、異常でおぞましい状況と言えるでしょう。 さまざまな調査によると、ネット上で誹謗中傷を熱心に行っているのは、昭和人間世代の中高年が中心というデータも出ています。それぞれ事情や理由があるんでしょうけど、これまでそれなりに頑張って生きてきたのは、そんなことをするためだったのでしょうか。「若者だってやってんだから、中高年ばかり責めるな!」と言いたい方は、その反論の情けなさを直視していただけたら幸いです。 もちろん、日々そういうことに精を出している人は、ごく一部でしょう。しかし、身に覚えがないからといって「自分には関係ない」という話ではありません。傍観者である大半の昭和人間にとって深刻なのは、さまざまな標的が入れ代わり立ち代わり攻撃されている光景を見ることで、いつの間にか人格を変えられていること。 ネット上では「正論」や「建前」が幅を利かせています。きっと「正しいこと」を言っている限り、多数派に属している安心感が得られるから。先日もありましたが、20歳未満の有名スポーツ選手の飲酒や喫煙が発覚すると、ネットニュースのコメント欄には「許せない!」という非難が大量に寄せられます。不倫がバレた芸能人もしかり。「あなたには関係ないのでは?」という声は、快感に溺れている人たちの耳には届きません。 ネット上には、近ごろしばしば見かける言葉ですが、残念な「正義中毒」の人たちがあふれています。そんな人たちの“活躍”を日常的に目にしているおかげで、静かに善良に生きている多くの昭和人間も、一種の「正義過敏症」になっています。「批判恐怖症」と言ってもいいかもしれません。 細かいところでは、誰かと話すときもSNSに書き込むときも、自分の意見を表明するときに言い訳がましいフレーズを加えるのが癖になりました。「考え方は人それぞれですけど」「あくまで個人的の見解ですけど」などなど。そんなのは断るまでもなく当たり前なんですが、「みんながそう思っているわけではない!」という「正論ではあるけど無意味なツッコミ」を受けそうな気がして、つい予防線を張ってしまいます。仮に言われたところでどうってことないのに、きっと漠然とした恐怖心に支配されているのでしょう。 仕事でも日常生活でも、常に「これはマズイんじゃないか?」というセンサーを敏感に働かせています。傷つく人がいてはいけないという意味でコンプライアンス的に慎重な判断をするのは当然かつ必要なことですが、多くの場合は「批判されないかどうか」を気にしているだけで、なぜマズイのかを真剣に考えているわけではありません。そして誰もが、自分で判断して自分で責任を負うことがすっかり苦手になりました。 いわば今の社会は、正義のこん棒でいきなり殴り掛かってくる人がどこにいるかわからない、極めてカオスな状態です。目の前にいる人がそうかもしれません。昭和人間の多くは、いつの間にか他人の顔色を熱心にうかがうようになり、思っていることを素直に口にできなくなっています。いや、あくまで個人の見解ですけど。 ●「自分たちは賢いけどあいつらはバカ」の罠 「批判されないように気を付けるのはいいことじゃないか」と考える人もいるでしょう。自分が安心安全を最優先に長いものに巻かれながら生きるのは自由です。ただ、何かと我慢を強いられたり周囲の目におびえる日々を送ったりしていると、他人のちょっとした失言やミスに不寛容になりがち。ネットのギスギスした雰囲気に毒されて、「こういうヤツは成敗されるべきだ!」と思ってしまいかねません。 毎日ちょっとしたことでイライラしてしまうようなら、自分が「ネットの影響で心がギスギスしているかも」という可能性を疑ってみましょう。「そうかもしれない」と感じることができるなら、まだ間に合います。ネットとの冷静な付き合い方を探りたいところ。今のままの状態が続くと、いつしかネットに罵詈(ばり)雑言を書き込んで留飲を下げる人生を送ることになります。ああはなりたくないですよね。 しばしば警鐘を鳴らされているのが、「ネットやSNSは自分好みの情報ばかりが集まってくる」ということ。どんなに偏った少数派の考え方でも、自分のスマホやパソコンを見ている限りは「みんながそう言っている」「仲間がたくさんいる」と感じてしまいます。リタイアしてリアルな人付き合いが減った高齢の親が、ネットばかり見ているうちに陰謀論にハマったという話は、ぜんぜん珍しくありません。 50代60代の昭和人間も、ネットという落とし穴だらけの危ない橋を渡り続けています。今の自分に不満がある人ほど、極端な考え方にハマったり、とっぴな言説をする人を支持したりすることで、自分が「特別な存在」であるかのように錯覚してしまいがち。政権批判や世界情勢に対する嘆きをSNSに書き込むことで、同じニーズを満たしている人もたくさんいます。結局は似た者同士なんですが、お互いに「自分たちは賢いけどあいつらはバカ」と思っているところが、ネットの罪なところと言えるでしょう。 こうして見ると、もともと人間が持ち合わせている「みっともなさ」が、ネットによってさらに極端にあぶり出されているとも言えます。昭和人間は大人になってからネットに触れたせいもあって、その楽しさや気持ちよさに溺れがちなのかも。付き合い始めた頃に感じた「無限の可能性」を忘れられないのかもしれません。令和になった今、あらためて「ネットの怖さ」を胸に刻んで、自分の毒されっぷりを謙虚に反省したいところです。 「ネットに振り回されない付き合い方」や「ネットで本当の情報を得る方法」なんてものは、はっきり言ってありません。ネットは「楽しいけど信用できない友だち」みたいなものです。言っていることは眉に唾を付けながら話半分で聞いて、仲良くなり過ぎず適度な距離を保ちましょう。そして、その口先ばっかりの友だちがあなたの価値を底上げしてくれる可能性はないし、耳寄りなもうけ話を持ってくることも絶対にありません。 何はともあれ、ネットに対する幻想やずうずうしくて過度な期待は捨てましょう。それが、ネットに振り回されてストレスを背負い込まないための第一歩であり、ネットに毒されて「みっともない昭和人間」にならないための必須条件です。 昭和人間(自分を含む)との付き合い上の注意――今回のポイント ネットは「みっともない人」をつくり出すのが得意であるバッシングを見ている側も「批判恐怖症」になっている幻想や過度な期待を捨てて、適度な距離を取り続けたい 文/石原壮一郎