大阪・関西万博の開催場所、IRの予定地の「夢洲」ってどんな場所?
大阪府咲洲庁舎の展望台から夢洲を望む
コスモスクエア駅前に戻った後、近くにある高さ252メートルという大阪府咲洲庁舎の展望台から夢洲を見下ろしたところ、コンテナターミナルよりも西側に広大な空き地があり、大型クレーンがたち並んでいる様子がこの目で確認できました。 展望台からの夢洲は細長い形に見えましたが、大阪市のサイトなどで確認するとそんなことはなく、野球のホームベースを少しゆがめたような六角形をしています。 約3年後の2025年4月、この人工島で2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)が始まる予定ですが、今はまだ、きっと華やかであろう本番での姿の片りんもうかがえない状況です。
業務・商業施設や大規模な居住区域を整備する予定だった
夢洲は、廃棄物の処分場として1977年に整備が始まりました。大まかに言うと、島の西側には一般廃棄物の焼却灰が、島の中ほどには海底からしゅんせつした土砂がそれぞれ埋められています。 島の東側については、コンテナターミナルを早期に開業するため普通の土砂で埋め立てられました。なお、今も島内の一部で埋め立ては続いており、完了時期は未定です。 1983年、大阪市は1989年に市制百周年を迎えるにあたっての記念事業の1つとして「テクノポート大阪」計画を発表します。 この計画は、夢洲・舞洲・咲洲を含む、合計約775ヘクタールの人工島に、先端技術を開発する企業や情報通信企業の誘致、国際展示場の大阪インテックスをはじめとする国際交易施設を集めて臨海部に新都心を作る、というもの。夢洲には、業務・商業施設や大規模な居住区域を整備する予定でした。
「夢洲」は公募で決まった名前、かつては五輪の選手村建設計画も
今、夢洲・舞洲・咲洲、と書きましたが、同計画が立案された当時、その名は使われていませんでした。 大阪市による公募を経て、これら3つ人工島の名前が決まったのは1991年4月。自らの案が選ばれた応募者は、大阪港が難波津と呼ばれたいにしえのころに詠まれた古歌を元に着想したそうです。 同計画で描かれた未来の夢を象徴するような名が付けられた夢洲ですが、90年代前半にバブルが崩壊すると、開発がとどこおります。 1990年代後半に、大阪市が2008年夏季五輪の招致活動を行った際、夢洲には選手村を建設する計画でしたが、2001年のIOC総会で落選して実現せず。 2002年にコンテナターミナルが稼働を開始したもののその他の開発は進まず、いつしか「負の遺産」と呼ばれるようになりました。