五輪落選史「谷間の世代」長谷部誠や川島永嗣は順当、キャプテン鈴木啓太は発表当日まさか、北京の家長昭博らは30代で…悪夢のち逆転人生
発表当日、予選で主将を務めた鈴木啓太の名はなかった
五輪のメンバーリストで多くのファンが驚いたのは、鈴木啓太の落選だ。 ダブルセントラル方式だった最終予選UAEラウンドで、日本は選手の大半が猛烈な下痢に襲われるピンチに陥った。ここで奮闘したのが、落選した森崎和幸に代わりキャプテンを務めていた鈴木だった。 ピッチ内外での働きで日本ラウンドへつなぎ、出場権獲得に大きく貢献。だが、本大会のメンバー発表当日、浦和のクラブハウスに用意された会見場には、闘莉王と田中達也だけが呼び出された。 悔しさを味わった鈴木だが、やがてオシムに重用され、彼のもとでは唯一の全試合出場を果たした。2006年10月、浦和と代表で充実した日々を送る鈴木は、Numberのインタビューにこう語っていた。 「もちろん得られたはずの経験を思えば行けたほうがよかったけど、事実として、僕に実力が足りなかったんだって本当に思う。あそこで、あの予選で、僕のオリンピックは完結したんだなって」
長谷部と川島の落選は“順当”だった
また五輪代表からも外れながら南アフリカに到達した選手には、後に代表チームの中心に長く君臨する2人のビッグネーム――長谷部誠と川島永嗣がいる。 ただ、長谷部はU-20代表も候補止まりで、五輪代表ではキャンプ招集もなし。浦和ではプロ1年目のリーグ戦出場はなく、2年目の03年に出場試合数を大きく伸ばしたが、トップ下とボランチの併用でベンチスタートも多かった。鈴木啓太とのダブルボランチが定着したのは04年の途中からで、磐田戦で伝説のゴールが生まれたのも五輪の後だ。 一方の川島永嗣は、PK戦にもつれたアジアユース準決勝で日本を救い、守護神として03年ワールドユースでベスト8に進出したが、04年にJ2の大宮から楢崎がいる名古屋グランパスへ移籍したため、クラブでの出場機会が激減。両者とも当時としては順当な落選だった。 アテネ世代が南アフリカで躍動したころ、彼らに“谷間の世代”という形容は似つかわしくなくなっていた。
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