老練のドキュメンタリー映画監督が追う「チベット・ケサル大王伝」とは何か?
標高3000~4000メートルの高原で毎年のように取材
テレビの世界で活躍していた大谷さんは、ケサル大王伝のドキュメンタリー番組を制作したいとテレビ局に企画を出したという。しかし、「OK」はもらえなかった。北京オリンピックを目前に控えていた当時、チベットではラサでチベットの独立を求めるチベット人デモが暴動に発展するなどし、中国当局は民族独立の機運が高まることに警戒感を強めていた。そうした中で、中国当局を刺激するチベット英雄伝を扱う番組を制作すれば、五輪の放映にも影響しかねないとテレビ局は考えたのかもしれない。 しかし、大谷さんはケサル大王伝の映像化をあきらめなかった。観光ビザで東チベットの標高3000~4000メートルの高原を毎年のように訪れ、ケサル大王伝にまつわる取材を重ねた。その成果が、2012年に完成し公開された自主制作のドキュメンタリー映画「チベット天空の英雄 ケサル大王伝」と2014年に公開した「天空の大巡礼」だった。「チベット天空の英雄 ケサル大王伝」はケサル大王伝にまつわる様々な文化が東チベットに今日も根付いていることを示したものだ。その中には語り部の姿も一部、紹介されている。「天空の大巡礼」は、12年に1回行われるケサル大王の魂の山とされる聖山、アムネマチンへの大巡礼の様子を撮影したものだが、巡礼路に高速道路が建設され、巡礼のチベット人たちが道を失い、トラックに追われながら聖山を目指す姿も映されていて、開発が進んでいる様子が実感させられる。 ケサル大王シリーズの第3作となる「チベット・ケサル大王伝~最後の語り部たち」は、ある日、突然、神やケサル大王が降臨して語り始める「神授型」といわれる語り部たちの姿を丹念に映している。彼らの多くは大草原で家畜のヤクなどを追いながら暮らしている。チベット研究者によれば、そうした環境が語り部を生み出すということだが、彼らがなぜ突然、ケサル大王伝を語り始めるのか、本当のところはよくわからない。ただ、ケサル大王伝は語り部にとどまらず、家の中では子供の頃からおじいちゃんやおばあちゃんなどによって、繰り返し話し聞かされるような環境がこれまであった。子供の頃から聞き、心の中にあった物語が、牧童として大自然に身を置いた時に自然とあふれ出てきた時、語り部が誕生するのかもしれない。 映画は、語り部にとどまらず東チベットの自然や暮らし、寺院や街の様子などにも迫っている。砂漠化などの環境荒廃を理由にチベット牧畜民を都市部に移住させる中国当局の「生態移民」政策により遊牧生活を捨て、新たにつくられた生態移民村で暮らすチベット人の姿。ケサル大王の像が建つジェクンド(玉樹)の街の近代化した様子。伝統的なケサルの祭りに、地域の共産党幹部たちがこぞって参加している様子なども映し出されていて東チベットの実情を垣間見せている。