老練のドキュメンタリー映画監督が追う「チベット・ケサル大王伝」とは何か?
多くのチベット人たちが暮らす中国の四川省や青海省。古都ラサがあるチベット自治区とは一線を画し、チベット人の「中国化」が進んでいる地域だ。東チベットと呼ばれるこの地域で、10年以上にわたりチベットの英雄叙事詩「ケサル大王伝」をテーマに取材を続けている老練の日本人ドキュメンタリー映画監督がいる。 かつてテレビのフリーディレクターとして世界中を取材し「地球浪漫」「新世界紀行」(TBS)や「ハイビジョンスペシャル」(NHK)などで大地に生きる人々をテーマに番組を制作してきた大谷寿一(おおたに・としかず)さんだ。 テレビの世界からドキュメンタリー映画の世界に転じ、日本ではほとんど知られていなかったケサル大王伝を紹介してきた大谷さんは昨年11月に70歳になった。しかし、制作意欲はますます盛んだ。現在公開中の最新作「チベット・ケサル大王伝~最後の語り部たち」では、チベットに伝わる世界最長と言われる英雄叙事詩をうたう草原の語り部たちに焦点を当てつつ、中国化されていく東チベットのありのままの姿を描いている。
ある日、突然、降臨して語りはじめる
中央アジアの山脈の麓に広がる大草原。色鮮やかな衣装をまとったチベット人男性が瞑想状態に入ったかと思うと、歌うような口調で語り始めた。チベットの英雄ケサル大王の戦いと恋を描いた物語、ケサル大王伝だ。 大谷さんがケサル大王伝について知ったのは、2004年に今は亡き友人のテレビディレクターから「チベットに世界最長の英雄叙事詩がある」と聞いたのが最初だった。ケサル大王伝とはいったいどういうものなのか? 日本にはほとんど情報がなく知られていない物語に興味を抱いた大谷さんは、その年に東チベットのはずれ、甘粛省の黄河沿いの草原の街でケサル生誕千年記念第2回大会という祭りが催されると聞きつけ、早速、現地に飛んだ。2006年には東チベットの伝統文化の中心、四川省のデルゲを訪問しケサル大王が描かれた古いタンカ(仏画)や版木などを目にし、勇壮で力強いケサル大王の魅力に引き込まれたという。 「チベットには7世紀、ソンツェン・ガンボという王が樹立した吐藩(とばん)という統一王朝がありましたが、この王朝が滅んで以降、(チベット人による)統一国家はありません。だからチベット人たちには、強い国や統一王朝といったものに対するあこがれのようなものがある。そのあこがれが物語となったのがケサル大王伝なのです」と大谷さんは言う。 ケサル大王伝は、現在はイスラム語圏になっているパキスタンの一部地域にも残っているという。この地域がかつてチベット語圏だったためだ。ケサル大王伝は実在の王をモデルに創作された物語とも言われるが、ケサルそのものが実在したとの説もあり研究者たちによって様々な研究が行われている。中央アジア・チベット語圏で語り部たちによって伝えられ、チベット語圏に生きる人たちが共有する英雄としてケサル大王伝は語り伝えられてきた。ケサル大王伝が今日も残るパキスタンの一部は、歴史的にはイスラム語圏へと変遷したが、言語がかわってもケサル大王は地域の英雄、アイデンティティーとして今日も語り継がれているのだ。