オノ・ヨーコ再考──財閥の令嬢はなぜアメリカを目指し、アーティストとなったのか
1960年代半ばの伝説的パフォーマンス
オノの作品は常に、スタイルも内容も驚くほど一貫している。1955年の初作品は、「マッチに火をつけて、消えるまで見ていること」という指示(インストラクション)をカードにタイプしたものだが、後年のパフォーマンスや映画でもこうしたスタイルがそこここに見られる。 しかし、全ての作品がそれほど穏やかだったわけではない。その一例が、《Cut Piece(カット・ピース)》という身体を張ったパフォーマンスだ。オノは観客の前に静かにひざまずき、ハサミで自分の衣服を切り取るよう呼びかけた(1965年にカーネギー・ホールで上演された際にメイスルズ兄弟が記録した映像が残っている)。このパフォーマンスは、特権的立場にいる男性からの侮辱に耐える女性を表したフェミニズム的な告発として受け止められたが、オノ自身は広島と長崎が受けた核兵器による壊滅的破壊を想起させるものだと述べている。ともあれ、自らの身体を脅かすことを観客に呼びかけるオノの手法は、ヴァリー・エクスポートやマリーナ・アブラモヴィッチといった女性パフォーマンス・アーティストの作品に受け継がれていった。
「ビートルズに悪影響を与えた」といういわれなき烙印
ジョン・レノンとの関係は──オノが世界的なセレブの一員になったという以外の意味はないにせよ──彼女のキャリアにおける最も重要な側面であり続けた。ほかのビートルズメンバーの妻たちとは違い、オノは夫の背後に隠れることなく、レノンと一心同体の存在として活動した。一方、ロック界のレジェンドになる前は美術学校に通っていたレノンも、2人のパートナーシップが創造的な可能性を秘めていることを理解していた。 ビートルズファンにとってオノの存在は目障りなものとなっていき、多くを語らない彼女の受動性(これは彼女の性格に由来するものであると同時に美意識の問題でもあった)が、これに拍車をかけた。ファンにとって、彼女はビートルズ解散についての負の感情を投影する格好のスクリーンだったのだ。しかし、オノがジョンと付き合うようになった頃、すでにメンバー同士の関係はギクシャクしていた。 ジョージ・ハリスンは、ソングライターとしてレノンとマッカートニーに一歩譲らなければならないことに不満を募らせていたし、レノンはヘロインに溺れていた(それもオノのせいにされた)。アルバム『リボルバー』や『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に見られるバンドとしての集中力をビートルズは失っていた。マッカートニーはグループが空中分解しないよう、まとめ役として振る舞っていたが、反感を買うだけだった。 こうした問題は、映画『レット・イット・ビー』に如実に現れている。1970年に公開されたこの映画は、ビートルズのメンバーたちが12枚目のアルバムのために新曲のレコーディングをしたり、数年ぶりのライブ(ロンドンにある彼らの会社の屋上で昼時に行われた)の準備をしたりする様子を捉えている。また、このとき撮影された映像を使って、2021年には『ザ・ビートルズ:Get Back』という全8時間の長編ドキュメンタリーが配信された。どちらのドキュメンタリーでも、オノは観賞用の石のように一言も話さずじっとスタジオに座っている。オノに批判的な人々はこれを見て、彼女がレノンに与えた悪影響を指摘するかもしれない。一方、映像の中でのオノの動き(あるいはその欠如)を見て、カメラの前で演じられた一種のパフォーマンスだと解釈する人も少なくない。 オノとレノンは、ベトナム戦争への抗議活動として行った1969年の「ベッド・イン」や、フィル・スペクターとの共同プロデュースによるアルバム『イマジン』(1971)など、さまざまなコラボレーションを展開した。オノは、アルバムと同じタイトルの大ヒット曲の共同作詞者でもあったが、それは2017年までクレジットされていなかった。