オノ・ヨーコ再考──財閥の令嬢はなぜアメリカを目指し、アーティストとなったのか
子ども時代に経験した戦争と名家ゆえの重圧
オノ・ヨーコは、3人きょうだいの長女として1933年2月18日に東京で生まれた。小野家は裕福だが転居がちな家庭で、武家の出だった父親はクラシックピアニストから銀行家に転身。その職業柄、一家は日本とサンフランシスコ、ニューヨーク、ハノイなどを行き来していた。母親は、当時日本最大の財閥の1つを率いていた富豪一族の出身だ。 一家は東京の高級住宅街である麻布地区に住んでいた。オノはそこで、12歳のときに1945年3月の東京大空襲を目撃している。3月9日の夜から10日未明にかけ、アメリカ空軍のB-29爆撃機が隊列を組んで東京上空に飛来し、大量の焼夷弾を落としたのだ。攻撃の対象は「軍事的な標的」だとされたが、木造家屋の密集する下町一帯が火の海となり、およそ10万人が犠牲となった。その被害は、イギリス空軍によるドレスデン空襲や長崎の原爆を上回る規模だと見られている。 母親と兄弟が防空壕に避難する中、熱を出して寝込んでいたオノは寝室に残り、街が破壊される悲惨な様子を窓から眺めていたという。一家は無事だったが、オノの母親は子どもたちを連れて田舎に逃れることにした(ハノイに赴任していたオノの父は、このとき中国の捕虜収容所に入れられていた)。手押し車に入る荷物だけを持って、一家は手持ちの金も行く当てもなく東京を後にし、長野県の農村にたどり着いた。しかし、1945年当時の日本のほとんどの地域がそうだったように、この村も食糧難に直面しており、オノの母親は子どもたちを飢えさせないため食料を無心したり、持ち物と交換せざるを得なかった。 オノは、戦争のトラウマが「私の人生に長い影を落とした」と回想している。それに加えて彼女の人生に影響を与えたのは、両親から十分に愛情を注がれなかったことだ。父親の単身赴任中に生まれたオノは3歳になるまで父親に会ったことがなく、貴族的な家の一員としての振る舞いを求められることにも反発を感じていた。そんな彼女は、やがて芸術家として生きることを選び、のちにこう振り返っている。 「それはすさまじいプレッシャーでした。反抗しない限り、私は生きていけなかったでしょう」