オノ・ヨーコ再考──財閥の令嬢はなぜアメリカを目指し、アーティストとなったのか
前衛芸術に足を踏み入れたきっかけ
オノは視覚芸術を正式に学んだわけではなく、東京の学習院大学哲学科に初の女子学生として入学している。彼女が受けた芸術教育は音楽が主で、幼少期にはピアノを習い、1952年に入学したサラ・ローレンス・カレッジ(その頃、一家はニューヨークのスカースデールに住んでいた)では、アルノルト・シェーンベルクら現代音楽の作曲家の12音技法に親しんだ。また、彼女がパフォーマティブな作品を手がけるようになったのは、少女時代に母親に連れられて観た歌舞伎の影響があるかもしれない。 1956年、彼女はジュリアード音楽院でピアノを学んでいた一柳慧と結婚し、大学を中退した(ピアニストで作曲家の一柳は最初の夫で、1969年に結婚したレノンは3番目の夫)。夫妻は結婚後すぐにマンハッタンに居を構え、一柳は当時ダウンタウンのアートシーンの中心人物だった実験音楽の作曲家・音楽理論家、ジョン・ケージの授業をニュースクール大学で受講している。同時期には、ハプニングと呼ばれるパフォーマンスの一ジャンルを開拓したアラン・カプローも一柳とともにこの授業を受けていた。こうした人脈を通じて、オノは1950年代ニューヨークの前衛芸術の世界に足を踏み入れる。 オノはまず、イベント主催者として頭角を表した。1960年にロウアー・マンハッタンのチェンバーズ・ストリートにあるロフトを住居兼スタジオとして借りると、前衛作曲家のラ・モンテ・ヤングの協力を得て、自身のものを含むコンサートやパフォーマンスをいくつも企画。その中には、壁に貼った紙にゼリーを投げつけるというイベントもあった。しかし、1960年代のニューヨークのアートシーンは徹底して男性中心だったため、一連のプログラムはヤングの功績とされた。そればかりか、フルクサス運動の創始者ジョージ・マチューナスが、アップタウンにある自分のギャラリーでオノの企画を流用したプログラムを開催し、彼女を怒らせたこともある。 マチューナスはその埋め合わせとして、自身のギャラリーでオノに個展を開くことを提案した。これが彼女にとって初の個展、そしてそのギャラリーで最後の展覧会となったが、1961年7月のオープニングに出席したのはケージと彫刻家のイサム・ノグチなど、わずか5人だけだったという。そのときの展示作品の1つは、不規則な形に切り取られた陸軍払い下げのキャンバス地を床に置いたもので、「踏まれるための作品」という手書きのメモが添えられていた。 鑑賞者の参加を呼びかけるこうしたスタイルは、芸術にありがちなシリアスさを茶化すユーモアのセンスとともに、オノ作品の特徴となっていった。そのユーモアには、マルセル・デュシャン(彼女のスタジオで開かれたイベントを訪れたことがあった)のレディメイド作品の影響がうかがえる。だが、《Painting to be Stepped On(踏まれるための絵)》(1960/1961)や《Apple(リンゴ)》(1966)といったオノの作品は、デュシャンの辛辣な皮肉を、瞑想的な禅の思想で和らげているように感じられる。