世代NO.1左腕・藤田琉生(東海大相模)の決意「僕は気合いと根性でプロの世界を生き抜く」【ドラフト候補インタビュー】
今年の「高校生No.1左腕」と称されるのが藤田 琉生投手(東海大相模)だ。198cmから最速149キロを投げ下ろす。甲子園でもベスト8に進出し、高校日本代表にも選出されるなど大活躍の1年だった。 【動画】藤田琉生の剛速球!! 9月26日にプロ志望を提出し、ドラフト上位候補としても期待を受ける藤田に東海大相模で過ごした3年間の苦悩や将来への思いに迫った。
「自分は誰よりも劣っている」
――3年間の中で一番つらかったのは何でしたか? 藤田 一番は2年生の夏の大会の1ヶ月前くらいにヒジを疲労骨折してしまったことです。自分でも「2年生の夏は勝負だ」と思ってずっとやってきていたんですけど……。一番自分の中で精神的な負担が大きかったです。 疲労骨折でヒジの骨にひびが入っていたような状態でした。悪化したらこの先にも影響出ると思って、結局3ヶ月間ボールは一切投げず、ノースローで過ごしました。そこで食事やトレーニングに多く時間を費やすことができました。 ケガがあったからこそ今の自分があるんじゃないかなと思いますね。 ――3ヶ月経ってから 練習再開をした時、以前とは違う感覚でしたか? 藤田 そうですね。体のキレもよくなり、体重が増えて強いボールが投げられました。ただ基礎的なところをやっていなかったので、最初はチームメイトにも置いてかれていましたし、まずはみんなに追いつくことだと思いました。バント処理も劣っていたので、自主練習などで追いつこうと思いました。 ――これでチームメイトに追いついた、と思ったのはいつぐらいですか? 藤田 「自分は誰よりも劣っている」と思ってやってきたので……。結果的には春夏とエースナンバーをもらったんですけれど、まだまだ劣っていると思っています。みんなを超しているという感覚はなかったですね。 ――今年の春ぐらいから原監督から「藤田が良くなってきた」という言葉が聞かれたんですけど、そういう自覚はありましたか? 藤田 ケガの後、秋くらいまでは時々自分もふてくされたり、イライラしてしまったりすることがあって、ずっと「そこを直さないとエースになれない」と言われてきました。「このままじゃいけない」と思って、冬の大会がない期間に、精神面を一から成長できるように常に意識していました。 ――どんな意識を持ってやっていましたか? 藤田 とにかく冷静に、感情を顔に出さないということを意識していました。“怒られているうちが花”と言いますが、注意して下さっているということは、「まだまだ自分もできる」という意味です。注意されなくなるということは、見捨てられたということです。注意されている間に絶対変えようと思いました。 ――春から夏にかけて注目度が上がったと思いますが、その頃は手応えを掴んでいましたか? 藤田 手応えというか、エースとして登板していたので自信は大きくついたと思います。