女王批判で右翼団体のメンバーに横っ面を張り倒された評伝作家ジョン・グリッグのルーツに迫る
ケニア総督や陸軍政務次官を経て男爵に
その2人の運命を変えたのが、結婚から2年後の1925年のことだった。エドワードがケニア総督に任命されたのである。新聞記者の時代から「植民地問題の専門家」とされた彼の実力を発揮できる舞台となった。 グリッグ総督は、現地人に対して威圧的にはならず、彼らが充分に教育を受け、様々な経験を積まない限り、独立や自治権は難しいとの考えを強めるようになっていた。1928年に彼はセント・マイケル・アンド・セント・ジョージ勲章の勲二等に叙せられ、「サー・エドワード・グリッグ」となる。 一方、妻のジョーンのほうは、元々父の下で様々な福祉活動に関わっていたが、ケニアでは貧しい人々や女性、子供たちのための活動に邁進した。特に看護師の育成、産婦人科医の充実を目的に「レディ・グリッグ福祉連盟」が設立され、それはアフリカ大陸でも最大級の福祉団体へと成長していく。 こうした活動がイギリス本国政府の目にとまり、グリッグはインド総督への就任を打診されるが、夫妻ともに身体がそれほど強くはなくなっていたことを理由に辞退した。帰国したグリッグは保守党に鞍替えして、マンチェスタ市の一角を占めるオルトリンガムの選挙区から出馬し、庶民院議員に返り咲いた。第二次世界大戦(1939~45年)が始まると、1940年からは陸軍政務次官となり、終戦の年に「オルトリンガム男爵」に叙せられた。戦後は政界からは離れ、『ナショナル・レヴュー』誌を買収して、自ら編集にもあたる。そして長い闘病生活ののちに1955年に76年の生涯に幕を閉じるのである。
政治評論家となったジョン
父の死により第2代オルトリンガム男爵となったのが長男ジョンであった。イートン校から、父がかつて所属した近衛歩兵第一連隊に入り、第二次大戦中は国内の警備にあたり、戦後はオクスフォード大学へと進んだ。卒業後は、父が経営する『ナショナル・レヴュー』に編集者として入り、様々な論稿を発表した。この間、庶民院議員選挙に2度立候補するがいずれも落選し、父のような議員活動はできなかった。 そのような矢先に父が亡くなり、貴族院議員になる資格ができた。ところがジョンは、世襲貴族制度には反対で、貴族院の登院も再三拒否し、一度として議場に入ったことがなかったのである。そして父から受け継ぎ、名称も『ナショナル・アンド・イングリッシュ・レヴュー』に変更した雑誌に次々と政治評論を書いていった。