ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (5) 外山脩
長崎港では、幕府の奉行の上陸許可を待たされた。お役所仕事で手間取り、ために太十郎は精神に異常を来し、刃物で自殺をはかった。一時は危篤となったが、助かったという。 やがて四人は、迎えに来た仙台藩の役人に引き渡され、江戸に送られた。 江戸では同藩藩侯が、家臣の大槻玄沢(蘭学者)、志村弘強(儒学者)らに命じて、四人の体験談を聞き取らせ、書物にまとめさせた。 これが『環海異聞』である。 玄沢は「未曾有の一大奇事にして…(略)…古今三千年来…(略)…の奇話異聞なり」と、その驚きを文字にしている。 『環海異聞』の記事の中には、デステーロの風景描写が載っており、 「湊は大なれども入り海にて、至って浅く、大船は岸に寄る事能わず…(略)…英船二隻、異国船二隻碇泊中…(略)…此の地の舟は細長く笹の葉の如し…(略)…此の地極熱、冬季なし…」 などとある。 四人が上陸して見た町、家屋の造り、食物、果実、野菜、動物などが絵図つきで記されている。 一方、四人を長崎に送り届けた使節レザノフにとって幕府側の応対は、意外にも冷淡かつ非礼であった。 実はロシア側は、その十二年前、やはり別の漂流民であった大黒屋光太夫ら二人を蝦夷のネモロ(根室)まで送り届け、国書を幕府に差し出していた。その時は、丁重な応対ながらも実は追い返された。さらに、その十二年前も似たようなことが起きていた。 レザノフは激怒、その感情が尾を引き、以後、両国間に波風が立つ。それは江戸時代末期に関する史書類に詳しい。
足跡を求めて
南樹は『埋もれ行く……』の再版の十一年前、若宮丸の水主たちの足跡を求めて、一人、フロリアノポリスを訪れている。一九五八年のことで、八十歳であった。 生涯、金銭には無縁の生活を送った彼は、この時も、費用については「貧困の懐中を傾けた」と自身、記している。 現地では、州政府の役人や地元の歴史学者を訪ね「百五十五年前に、日本人四人を乗せて寄港したロシア軍艦」に関する資料を探した。 そんな大昔、ただ寄港しただけの外国船の記録など残っている筈はないのだが、大真面目であった。 結果的には、やはり何も得られなかった。やむを得ず、海岸を散策、往時を偲び短歌を詠んだ。彼は歌人でもあった。但しその歌は、ひどく素人臭い。 ついでながら記しておくと「南樹」は、彼が歌を作った時に使った号である。それ以外、例えば前記の二冊の著書の執筆者名は「貞次郎」を使用している。が、世間では南樹の方が通りが良かったし今もそうである。それで筆者も、こちらを使用している。 話を戻すと、フロリアノポリス行だけでも驚きだが、南樹は二年後の一九六〇年、訪日して水主の一人の墓石を求めて、仙台を訪れている。墓石が現存することを、何かの資料で知ったらしい。この訪日は別の用件も兼ねていたが、仙台行は主目的の一つであった。 時に八十二歳。取材に協力した地元の人も呆れたのであろう、墓石のある場所が辺鄙すぎることを理由に、現地入りは止めるよう忠告した。南樹はそれに従ったが、諦めた動機は体力の問題ではなく、旅費の不安であった。訪日経費はサンパウロの友人たちの醵金に頼っていた。