『新宿野戦病院』は『IWGP』×『俺の家の話』? 宮藤官九郎が描き続ける“土地”と“今”
『新宿野戦病院』(フジテレビ系)は毎度新宿歌舞伎町の紹介から始まる。第1話は橋本愛演じる南舞による英語のナレーション、第2話はスペイン語、第3話は韓国語と続き、各話において新宿歌舞伎町が「東洋一の歓楽街」でありり「誰でも安心して遊べる」ことを強調しつつ、その後の展開が、ことごとくその「美化された光景」を打ち消していき、現実の歌舞伎町の姿が浮かび上がってくる。 【写真】伝説的ドラマであり宮藤官九郎の名前を世に知らしめた『池袋ウエストゲートパーク』 例えば第1話において、南が撮影する「近年健全かつ衛生的な若者の街として生まれ変わった」歌舞伎町のプロモーション映像が、泥酔する女性として登場したヨウコ・ニシ・フリーマン(小池栄子)の疾走や、怪我を負って逃げるホストのマモル(濱田和馬)の乱入によって続行不能になるように、そこには、小綺麗にひとまとめにすることなんてできない、人々の人生がひしめいている。「聖まごころ病院」という柔らかい語感の病院が、またの名を「新宿野戦病院」と言うように。亨(仲野太賀)からすれば「穢れを知らない無垢な」舞が、全く別の一面を持ちあわせているように。あるいは、薬の過剰摂取を繰り返す少女・マユ(伊藤蒼)が「そういうドラマのそういう子の役」に当てはめられることを嫌うように。宮藤官九郎脚本は、人と街の、多様な側面を描く。 『救命病棟24時』シリーズ(フジテレビ系)、映画『仕掛人・藤枝梅安』シリーズなどを手掛けた河毛俊作監督発案のもと、宮藤官九郎による完全オリジナル脚本の救急医療エンターテインメント『新宿野戦病院』が誕生した。ヨウコや院長・高峰啓介(柄本明)を中心に「平等に、雑に助ける」聖まごころ病院の面々の活躍ぶりといった「医療ドラマ」としての魅力はさることながら、本作の何よりの面白さは、「医療ドラマ」という枠組みに留まらないことにある。公式サイトにおいて、野田悠介プロデューサーが「医療ドラマにして、ホームドラマ」でもあると言及しているように、医療ドラマであり、ホームドラマでもあり、さらには「新宿歌舞伎町を舞台にした宮藤官九郎作品」でもある本作は、どの角度から観ても新しい発見がある。 宮藤官九郎は、その土地を生きる人々を描くことで、「今」を浮かび上がらせてきた作家である。『木更津キャッツアイ』(TBS系)で千葉県木更津市を、石田衣良原作『池袋ウエストゲートパーク』(TBS系)で池袋を、NHK連続テレビ小説『あまちゃん』で岩手県北三陸を舞台に、その土地を生きる人々を描いてきた。『季節のない街』(ディズニープラス・テレビ東京系)においても、山本周五郎の同名小説を原作に舞台となる「街」を「12年前に起きた“ナニ”の災害を経て建てられた仮設住宅のある街」に置き換え、個性豊かな人々の悲喜劇を現代に蘇らせつつ、現代そのものを浮き彫りにしていった。 本作もまた、歌舞伎町を舞台に、路上生活者や在留外国人、トー横キッズ、ホストや、ホストのために風俗店で働いてお金を稼ぐ女性たちが抱える様々な思いを掬いあげることで、現代の日本社会が抱える様々な問題を描く。さらにはアメリカ国籍の元軍医であるヨウコの体験談によって、戦争の生々しい匂いを漂わせることで、物語の外側、つまりは歌舞伎町及び日本の外側の世界で確かに起きていることを実感させる手法も興味深い。 次に、ホームドラマとしての『新宿野戦病院』である。本作において実に頻繁に描かれているのが、「食卓を囲む人々」の姿だ。エンディングにおいて、家長の席に鎮座した啓介を中心に、敬三(生瀬勝久)、舞、岡本(濱田岳)、遅れて入ってきた享とヨウコが食卓を囲み、BUG RICEを食べる姿が象徴的に描かれていることからもわかる。 本作において食事は、一見バラバラな人々を繋ぐ重要なモチーフになっている。例えば、アメリカから来たヨウコには不評な高峰家の朝食は、ご飯に味噌汁、焼き魚、納豆に卵、いかの塩辛と、理想的な和朝食である。興味深い点は、エンディングとは違い、啓介は悉く「俺の朝メシ」と「私の席」を奪われ続けるということ。さらに、第3話において、「BUG RICE」はヨウコの「お袋の味」であることがわかり、啓介の行きつけのジャズ喫茶「BUG」でヨウコと啓介は、片や泣きながら、スプーンで騒々しく卵を潰しつつ「うんめえ」とそれを頬張る。そこで啓介とヨウコの間に親子のような関係性が生まれる(「もしや本当に親子なのでは?」と視聴者に思わせたりもする)。 堀井(塚地武雅)の好物のペヤングもまた、本作において欠かせない存在だ。第2話において、マユはヨウコと真夜中のペヤングをシェアする。朝起きて並んで歯を磨く時、マユは一際嬉しそうな顔をしている。それは恐らくそこに拠りどころとなる「ホーム」を見つけたからではないだろうか。また、思い思いの食べ物を持ち寄り、一つ所に集って食べる聖まごころ病院の医師・看護師たちの光景も、1つの「ホーム」を構築していると言える。つまり本作は、人々が「食事をする」という1点において、その新しく、より自由で流動的で開放的な「家の話」を描いている。ある意味、令和版『池袋ウエストゲートパーク』のようで実は『俺の(私の/私たちの)家の話』とも言えるのかもしれない。 そして、歌舞伎町そのものが一つの大きな「ホーム」なのだとしたら、その中心で、一方が太陽なら、もう一方が月の光のように、対照的な輝きを放つのが、ヨウコであり、舞である。片や雑に、片やきちんと「平等に」人々と向き合っている。
藤原奈緒