追悼ジェリー・ウエスト――田舎の少年がレイカーズのエース、NBAロゴのモデルとなるまで【レジェンド列伝:再掲】<DUNKSHOOT>
2024年6月12日、NBAレジェンドのジェリー・ウエストが86歳で亡くなった。1960年代~70年代のNBAを語る上で欠かせない“ミスター・クラッチ”は、選手として輝かしい実績を残しただけでなく、引退後はゼネラルマネージャーとしても抜群の手腕を発揮した。 【動画】”ミスター・クラッチ”ウエストのキャリア好プレー集 1980年に選手として、2010年には1960年のアメリカ代表メンバーとして殿堂入り。さらに今年4月には、功労者として3回目の殿堂入りを果たした。バスケットボール界に多大な影響を与えたウエストの功績を改めて振り返る。 記事初掲載:2022年10月21日 ※『ダンクシュート』2009年8月号原稿に加筆・修正 ――◆――◆―― 今から15年ほど前のこと。ニューヨーク・ニックスなどで活躍した解説者のマーク・ジャクソンが、「NBAのロゴは時代遅れ。マイケル・ジョーダンのシルエットに変更すべきだ」と発言したことがあった。少なからず賛同意見もあったが、今に至るまでロゴは変更されていない。 ジョーダンといえどもその地位を脅かすには至らなかった“ザ・ロゴ”のモデルこそ、ジェリー・ウエストである。現役時代にロサンゼルス・レイカーズのスーパースターとして活躍した彼は、1969年に制定されたファイナルMVPの第1回受賞者。しかも優勝したボストン・セルティックスではなく、敗者のレイカーズから選出されるという、史上ただ一度の珍事の当事者でもあった。 ■正真正銘の田舎の少年から“ミスター・クラッチ" へ レイカーズに入団した頃、ウエストに最初につけられたニックネームは“ジーク・フロム・キャビンクリーク”だった。キャビンクリークはウエストバージニア州にある小さな町で、ウエストの生地シェイランから最も近い郵便局があったところである。NBA史上有数の大スターは、郵便局すらない田舎町で育ったのだ。 ウエストはさほど運動能力に恵まれた少年ではなく、フットボールや野球では学校のレギュラーにはなれなかった。だがバスケットボールは例外だった。近所の倉庫の壁に取り付けられていたリングに向かい、雨や雪の日も寝食を忘れて練習を積んだ結果、いつしか誰にも負けないほど見事なフォームで、正確なシュートが打てるようになっていた。 高校でも当初は控え選手だったが、最上級生になって身長が6インチ伸びると、毎試合30点以上を叩き出すようになった。地元のウエストバージニア大に進み、59年のNCAAトーナメントに出場。決勝戦でカリフォルニア大に敗れたものの、ウエスト自身は5試合で160点を稼ぎ出し大会最優秀選手に選ばれた。 翌60年にはローマ五輪の代表にもなった。ウエストの他にもオスカー・ロバートソン、ウォルト・ベラミー、ジェリー・ルーカスら、のちにNBAで活躍するスター選手が揃った最強チームで手にした金メダルは、彼の人生で最高の思い出になった。
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