母にずっと意地悪だった。40代になって出会ったある人物のおかげで見えてきたものがあった
まだ幼い私たち3姉妹を残し、父は母を捨てて家を出て行った。高利貸しへの返済に追われる日々を過ごしながら、母は4人での生活を続けていくために必死だった。落ち着いた場所にあった持ち家を売り、アパートへと引っ越しをし、生活費を稼ぐために仕事も始めた。 【画像】4歳当時の筆者と母。誕生日のお祝いで笑顔を見せている アメリカで小学1年生だった私は、母が苦しんでいたことも、不確かな未来の不安に追い詰められていることも、背負わなければいけなかった責任のことも、理解できていなかった。そればかりか、母のことを自分自身をコントロールできずにいつ怒りを爆発させるかわからない存在に感じていた。 8歳のある朝、本ばかり読んでぼうっとしていたら、母に髪の毛をつかまれて鏡の前まで引っ張ってつれて行かれたことがあった。 「そのシャツを学校に着ていくつもり!」 金切り声で問い詰められた。「ダメなの?」と聞くと、「見てみなさいよ。気づかないの!」と強い口調で言われ、着ていたシャツを改めて見てみた。 「赤と黒のチェック柄が派手すぎる?サイズが小さすぎる?」 母は「ちがう!しわが寄っているでしょう!」と言い、私のことをぶった。「急いで着替えて。遅刻しちゃうでしょ」と怒りは収まらなかった。 このエッセイを配信するにあたり、事前に母に読んでもらった。クローゼットの中で私に暴言を吐いたことを思い出したと教えてくれたので、そのことも盛り込むことにした。前夜に婚約指輪をなくたことに落ち込み、心当たりの場所を探してまわったが見つからず、気が動転していたのだという。婚約指輪は母にとって、別れた夫との唯一のつながりだった。捨てられてしばらく経ってもなお、まだ夫が戻ってきてくれるかもしれないと思っていたというのだ。 そんな母の苦しみを全然知らなかった。だから、悲しくて泣きながら子ども部屋に戻った。子ども部屋にはパステルカラーの虹の模様の大きなカーペットが敷かれていた。わざわざお金をかけて、前の家にあったものをアパートに持ち込んだのだった。引っ越しによる寂しさを和らげたいという母の思いやりだった。 慣れ親しんだカーペットはなんの慰めにもならなかった。州またぎで引っ越したため、転校することになり、友だちと離れ離れになった。一軒家からハンモックで寝る生活になった。そして、父のいない子になった。母は何が引き金となって怒り出すかわからないため、細心の注意を払わないといけなかった。 ここに挙げたほかにも、母からとがめられたことはあったかもしれない。記憶が色褪せてくれたおかげで詳しくは思い出せないが、アメをこっそり食べたとか本をなくしたとかで怒鳴られたことがあった。本だったか妄想だったかに没頭して何かに遅刻したときにも大声でわめかれた。 数年前、子ども時代から引きずっているトラウマを解放する方法を心理カウンセラーに相談し、EMDR(眼球運動による脱感作および再処理法)を教わった。 母にぶたれたことは思い出さなかったが、ある光景がぼんやりとよみがえった。 母が運転する車の後部座席で何もしゃべらない私がいて、助手席には明るい性格の姉が座ってその日の出来事を話し続けている。2人は私が一言もしゃべらないものだから、話に加わるようにしつこく誘ってくる。内気な殻を破らせようとしてくれたにちがいないのだが、「あなたは静かすぎ、気にしすぎ、無関心すぎ」と言われているように感じただけだった。 子ども時代の私は、自分のことをどう伝えたらいいのかわからなかった。だから、本や頭の中で物語をつむぐことに傾倒していき、どんどん内向きになっていった。成長するにつれ、家族が私のことを愛してくれていることはわかった。でも、私は好かれたかった。 そんな思いを抱きながら生きてきた。大人になっても、母への恨みがついてきた。 母が「つまり…」と話し始めるだけで、イライラが込み上げてくるようになった。「早く言ってよ。結局続きを言うんだから『つまり…』は必要ないじゃない!」と私はキレてしまう。他にも苛立ちが抑えられなくなる言葉があった。「とはいえ」という母の口癖だ。知らない人たちの話を脈絡なく始めることにもイライラした。人の外見についてあれこれ言うのを聞くのも嫌だった。 母の携帯電話マナーも耐え難かった。郵便局で大きなで「Hey Siri」と言ってレストランを予約したり、スターバックスでこれまた大声でビデオ通話を始めたり…。 私がイライラをぶつけると、母は冗談まじりだとは思うが「最悪のアダルトチャイルド」と言った。たいていの場合、尊敬を欠いた私の振る舞いは多めにみていた母だが、たまに言い返してくることがあった。携帯電話のマナーがなってないと怒るが、子どもたちや義理の家族の前で怒りを爆発させる私の態度の方が無礼ではないのかと。 母は感謝している。おばあちゃんとして孫たちに泳ぎを教えてくれたり、試合や発表会に駆けつけてくれたり、ボードゲームで一緒に遊んでもくれる。孫に愛情を持って接してくれるし、私の母親ぶりもほめてくれる。 母に対してイライラしてしまう理由があるとはわかっていたが、親娘の確執は単に携帯電話マナーだけの話ではないということは見えていなかった。 幼いころに鏡の中に見た母の姿を許すことができず、ずっと母を責め続けてきたのだ。母に怒鳴られたくないと願う気持ちが、母のことをどうにも我慢できないイライラとなって現れたということのようだ。