中山美穂が「85年組」で頭ひとつ抜けた理由と「アイドルの早世」が浮き彫りにした光と影
■主題歌と出演ドラマを両方ヒットさせる では、彼女はなぜそれほどの成功を収めることができたのか。 理由のひとつめは「女優型」のアイドルだったことだ。 70年代前半から80年代前半にかけて、アイドルの主戦場は歌番組。ドラマや映画、バラエティーにも出たが、メインは3カ月単位で新曲を出す歌手としての活動だった。70年代に女優としてもヒット作を連発した山口百恵はむしろ例外的存在といえる。 そんな歌手メインのアイドルがしだいに飽きられ、80年代には女優業にも重きを置くアイドルが目立ち始める。薬師丸ひろ子や原田知世、そして、中山美穂や斉藤由貴、南野陽子である。この人たちは歌唱力だけでなく、歌のヒロインを演じているかのような表現力、いわば「女優力」によって、歌手メインの活動だった松田聖子や中森明菜にはない魅力を醸し出した。アイドルが飽和状態となるなか、それは大きな武器となったのだ。 特に中山は、主演するドラマや映画の主題歌を自ら歌ってどちらもヒットさせるという離れ業を次々と成功させていく。すでに各メディアが報じているように、その複雑な生い立ちもあいまって、80年代版の百恵みたいな存在だった。 一方、前出の本田美奈子は演技が苦手だと公言、歌手一本でトップを目指した。過激なセクシー路線で一定の成果はあげたものの、もし70年代に生まれていたら、岩崎宏美のような正統派のポップス歌手としてもっと上にいけたのではないか。 そして、ふたつめの理由は音楽的嗜好だ。 幼少期「70年代の大人びた歌謡曲」に夢中だった中山は、やがて洋楽も聴くようになり、特に米国のR&B歌手、ボビー・ブラウンに心酔した。この嗜好が筒美京平や竹内まりや、小室哲哉、角松敏生といった作曲家が生み出す洋楽っぽいサウンドにうまくハマったといえる。好きこそものの上手なれ、というやつだ。さらに、彼女の華やかな容姿や艶っぽい声質もそのサウンドとの相性が抜群だった。 昭和のアイドルとして世に出ながら、平成のJポップにも対応できたのはそこが大きい。その最大の成果が、Jポップ草創期を象徴するビーイングが手がけるWANDSとコラボした「世界中の誰よりきっと」だったわけだ。 ちなみに、レコ大の最優秀新人賞を争った本田美奈子とはその後も真夜中に電話をかけあうほど仲がよかったという。ただ、本田は2005年、白血病のため、38歳で死去。そして、中山も帰らぬ人となった。