「文章が上手い」とはどういうことか?「上手」と「下手」を深掘りする
---------- 思考家/批評家/文筆家の佐々木敦さんによるWEB連載「ことばの再履修」の第4回。今回は、より具体的に、上手な文章、下手な文章について考えていきます。豊富な引用も愉しい、佐々木さんの講義が始まります! ----------
「人それぞれ」の上手さを見ていく
上手な文章を書きたい、それを読んだ他人に「上手な文章だなあ!」と感心してもらえるような文章を書けるようになりたい、誰しもが望むことだと思います。 しかし、ここでいう「上手」さとは、いったい何なのでしょうか? すぐに思うことは「上手な文章といっても色々ある」ということです。文学の世界には「名文」とされている文章がいくつもありますが、それらはもちろん同じ文体(とは何なのかということも重要な問題なのですが、それはまたあとで取り上げます)で書かれているわけではありません。 名文という評価の理由は多岐にわたっており、派手で美麗な文章、枯れた味わいのある文章、明快で軽やかな文章、重厚で深みのある文章、整った文章、破天荒な文章、などなど「上手」な文章のタイプはさまざまです。自分が読んで上手だと感じても、他の人にとってはそうでもない場合もあるし、文豪が著した名文を読んでみても、いまひとつピンとこないこともある。 要するに、どんな文章を「上手い」と思うかは、人それぞれ、ということです。まったくもって当たり前の話ですが、しかし、この「人それぞれ」には、もう少し掘り下げてみるに足るものがあるのではないかと思うのです。
「上手い」と「わかりやすい」の問題
本講義では、基本的に「言語表現」について述べていますが、ことばには「言語伝達」という面もあります。伝達と表現は、ことば=言語使用の二大機能ですが、重要なことは、この二つが必ずしも別々のものではないということです。 ことばによるコミュニケーションと、ことばを用いた広い意味での表現行為は、実際には地続きのものであり、重なり合っています。言語コミュニケーションには程度の差はあれ表現ともいうべき要素が常に潜在しているし、言語表現にはコミュニケーションの次元が必ず存在しています。いわゆるコミュ力の高さは、その人の言語(表現)能力に依存しているし、誰にも伝わらないような表現=作品は、ひとりよがりと呼ばれてしまいます。言語表現においても、コミュニケーションへの配慮や他者に伝えるための工夫は最低限必要だし、文章の「上手さ」は、この点にも深くかかわっています。 しかし問題は、ただ伝わればいいわけでもない、ということです。確かにビジネスにおけるプレゼン資料や企画書、あるいは報告書は「伝える/伝える」に特化したジャンル(? )ですから、そこでの文章の技術(上手さ)はコミュニケーション・スキルの巧拙ではかられますし、そのような評価基準は(おそらくは近年の出版業界の更なる先細りによって)人文系や文芸にも染み渡ってきているような気もします。 特定の専門知に属するような内容を「ビジネス・パーソンのための~」などと銘打つことによって僅かなりとも(実店舗であれオンラインショップであれ)書店でのアテンションを得ようとするマーケティングは最近ますます多用されていますし、そうなると「表現」より「伝達」のほうが重視されるのは致し方ないことだと言えます。 そこで称揚されるのが「伝わりやすさ」、言い方を変えれば「わかりやすさ」です。わかりやすい文章が上手な文章である。これは間違いなく一面の真実を言い当てています。しかし一面でしかない。そもそも「わかりやすさ」とは何なのかということも、けっしてわかりやすい問題ではありません。