「文章が上手い」とはどういうことか?「上手」と「下手」を深掘りする
「短文ほど良い」というマニュアル化
何を目的とする文章なのか、という点はとりあえず措くとして、最近よく目にするのは、文章は短い方が伝わりやすい/わかりやすい、という主張です。逆にいえば、長い文章はわかりにくい/伝わりにくい。頭の良い人は文章が短い、文章を短く切ってきちんと小分けにできない書き手は頭が悪い、と断ずる方さえいます。 これこそビジネス・スキルとしての言語使用の覇権を端的に表す事態ですが、なるほどそれはそうかもしれませんね、といったんは受け取っておいて、私としてはやはり、短くはない文章にだって効用がある(こともある)と小声で言っておきたい気持ちがあるのです。 文章に凝り過ぎ、という言い方があります。悪文という言い方もある。言い回しや形容を飾り立てて文意が不鮮明になっていたり、まわりくどくて何が言いたいのかわからない、ということですね。短い文章への信頼は、こうしたことばの状態、固い言葉を使うと冗長性(内容に比して無駄に長くなること)とノイズ(円滑な伝達の妨げになる余分な要素)に対する警戒心と繋がっています。同じことを言うのなら10個の文章よりも5個の方が効率的だし、そのためには不必要な言葉はできるだけ削ったほうがいい、それはそうです。 けれども、ならば冗長な文章、ノイズの多い文章、長ったらしい文章にはまったく価値がないのかというと、もちろんそうではない。好みの問題を言っているのではありません。ごく単純に言って、短くても魅力のない文章はあるし、長い文章にだって面白いものはある。表現の次元を限りなくゼロに近づけることがよしとされるような場合(魅力や面白みが不要な場合)を除けば、やり方次第で冗長性やノイズは自分の文章の武器になりえるし、それは必ずしも文学や文芸といったジャンルに限ったことではありません。 一方、短文の連なりから成る簡潔で読みやすい/わかりやすい/伝わりやすい(とされる)文章には、どうしても他の人が書いた文章と似てしまうという弱点(とは思わない方もいるでしょうが)があります。書店の棚を覗いてみれば、あるいはネット書店で検索してみればすぐにわかることですが、こちらの方向の「文章教室」「文章指南」的な書物は、すごく沢山出ています。それ自体が「短い文章」の羅列で書かれているその種の本を読んで実践すれば、誰でもある程度は「短い上手な文章」を書けるようになります。 文章に限らず、音楽や映像といった分野でも、今はマニュアル化が非常に進んでいて、かつては時間的にも労力的にもかなり時間が必要だった「技術の習得」が大幅にショートカットされており、平均的なレヴェルも昔に比べれば飛躍的に向上している。でもその代わりに、どれもこれも似たりよったりの、そこそこの「上手さ」に留まってしまっているように思えます。 そのようなどんぐりの背比べ的な状態から頭ひとつ抜き出るには、もちろん最初から非凡な才能に恵まれているなら別ですが、そうではなくて、自分が作り出したものを他の人たちが作ったものから差異化するためには、個性を、すなわち何らかの意味での個別性・特殊性を、ユニークネスを獲得する必要があります。 そして私は、個性の種は誰にでも備わっており(要するにそれが「人それぞれ」ということです)、それを意識的に発芽させ、伸長し、開花させることは可能だと考えています。そのための方法のひとつとして、たとえば文章の長短という問題も、ただ単に短くてわかりやすければよいという常識から離れてみることが有効な(場合がある)のではないかと思うのです。