【証言・北方領土】歯舞群島 水晶島・元島民 柏原榮さん(1)
遠方の岬の集落は逃げ遅れた人が多かった
―当時、水晶島に学校が2つあった、と。小学校か。 小学校です。私どもが通ってた税庫という地名のところに、税庫前って言われてたんですけど、そこに水晶島尋常小学校というのがあって、それから、もう一つの部落はですね、これは東側のほうに、東側っていうか北東のほう、北東の方にあるな、アキヤジマっていう部落があるんですよ。そこも結構な集落ですからね、そこに住宅、学校があったんですね。それは分校なんですね。 ええ、分校でね。たまに遠足なんかはそっちのほう行ったことはありますからね、だから、もう大体を小学生時代は一周してるんですよ。それで、その島の地形、それから、どういう部落があって、どんな道だったかっていうことも、記憶に残っているっちゅうことですね。 ―その学校があった2つの集落が大きかった? だけどもね、後半はね、私どもが住んでた茂尻消(もしりけし)というところが人口増ですね。そして、どんどんどんどん、そこに増えていって、そして、昆布の、何ちゅうかね、納沙布の近く、その周辺はね、岩礁が多いんですね。大体、水晶、これアイヌの人がつけたね、スイソウというのかな、それで水晶っちゅう名前だっていうんですけども、岩場が多いって。モシリケッシというのも、これも磯、それから、岩礁とか、岩場とかってか、そういうね、アイヌ語なんですね。昆布はそういうところに生えますからね、岩礁。 私どもの茂尻消を中心にして両方、東と西に、ずーっと弁財泊から、弁財泊っちゅうのは港ですけども、私どもの港は弁財泊っていって、非常に広い港湾っていうかね、風によっては穏やかなところなんですよね。大体、風は北西の風が多いかな。だからね、そう風当たりは強くないから港としては穏やかなところでしょうね。 裏側はウラモシリケシとか言ってたんですけど、そこも大変、昆布の漁する人たち。だから、茂尻消というのは、非常に人口密度が、当時でいえばね、高かったということですね。だから、そこに住んでいた人たちは、ロシアの軍隊が入ってきたとき、まさか占領されるとは思ってなかったんでしょう。また来るんだというような、そういうことで避難する気持ちで、ああ、これならだめだなっていうことで8割方逃げたっていうかね。 だから、逃げおくれてっていうか、逃げられなかったっていう、あれですね、遠いところっていったら、アキヤジマとか、アキヤジマの三角、トッカリサキという岬があるんですけど、その辺で昆布業を営んでいた人たちは、監視の目もあったし、やっぱり遠回りになるからね、岬を越えて根室に向かうっちゅうことですからね、大変、逃げるのは大変だったっちゅうことで、ほとんど残ったんでないかい、ですね。茂尻消とか、税庫前のほうで、茂尻消寄りのところは皆逃げて来たということですね。