【証言・北方領土】歯舞群島 水晶島・元島民 柏原榮さん(1)
昭和20年8月 土浦海軍航空隊に入隊する予定だった
―ありがとうございます。当時の家族構成は? 父、母、それから、姉と、私と、それから、妹がいたんですね、5人いました。兄貴が2人いたんですけどもね、これは戦争に行って、いなかったんですよ。中国、それから、樺太、そういうことで、結局、子供時代は、兄貴たちとの会話っていうのほとんどなかったですね、戦争に行ってたからね。姉とはよく会話をしましたというかね。 その島を出てくるときっていうのはね、1945年、つまり昭和20年の8月の20日過ぎだね。20日過ぎ、8月の終わりごろだったかなと記憶してんですけどね。私、単独で本土に渡ったんですけどね。ちゅうのはね、私は土浦海軍予科練習生っていうかな、土浦海軍航空隊予科練習生として8月の20日ごろに入隊することになってたんですよね。 それで、8月の初めに、帯広で、学徒動員で働いてたんですよ、製糖工場っつってね、帯広ね。それで、みんなに見送られて。送別会をし、見送られて、そして、島に渡ったんですけどね。そのとき、根室の駅におりて、港まで行くんですけれどもね、そのときは、根室は、7月の14・15日の空襲で7割、8割近く燃えてたのかな。その残骸を目にしながら、いや、これはね、子供ながらにもさ、子供って、その当時14歳ですからね、14歳の少年の心ん中では、いや、これは日本は絶対に勝つと言ってたのに、こういう状態ではという疑問はね起こりましたけど、島に渡って、国のためにということで、島で青年団が中心になって送別会、壮行会だ。 そして、仕立船って、出征兵士を見送るときには特別船を出すんですよ、根室までね。これを仕立船っていうんです。病人とか、出征兵士をね、嵐のときでも、そんなひどい嵐だったらだめですけれども、突っ走って根室に行くと、根室港にね。そういう仕立船もちゃんと準備されてたんですけども、15日の日に、日本は負けたという知らせを雑音の多いラジオで島中に流れたのかな。