豊臣秀長は、兄・秀吉のブレーキ役だった? 天下統一を実現させた“真の功労者”
「有名だけれども、よくよく考えると、何をした武将なのか...」。知名度に比べて、実像が知られてない武将は数多いが、2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公・豊臣秀長もそうかもしれない。果たして彼は、何者だったのか。「秀長をもっと知ってほしい」と語る小和田哲男氏が、その実像を解き明かす。 【画像】秀吉も恐れていた雑賀衆・鈴木孫市(『太平記英勇傳』)
異父兄弟か、実の兄弟か...
豊臣秀長は、秀吉の3歳年下の弟として、天文9年(1540)、尾張国の中村に生まれました。秀吉と秀長の母・なかは、最初の夫である弥右衛門に先立たれ、竹阿弥を次の夫に迎えています。そうしたことから、秀吉と秀長は、異父兄弟と言われることがありますが、私はそうではないと見ています。 なぜかというと、弥右衛門が亡くなった年は、秀長が生まれてから3年後の天文12年(1543)だからです。このことから、秀吉と秀長は血のつながった兄弟と考えられますが、継父となった竹阿弥との折り合いが悪かった秀吉は、家を出て行くこととなります。 周知のようにその後、秀吉は織田信長に仕えて立身し、さらに天下統一を成し遂げるわけですが、秀吉と秀長の家は、決して裕福な農民ではありませんでした。 初期の秀吉というと、木下藤吉郎という名を思い浮かべる方が多いでしょう。しかし実は、「木下」という名字は、秀吉の正室・ねねの実家のものであり、秀吉はねねと結婚することで、初めて名字を名乗ることができたのです。つまり、それまでは名字がなかったわけで、そこから、秀吉一家が貧しい農民だったことがうかがえます。 当時、農民の中でも、名字を持てる階層と持てない階層とがあり、前者は「名字の百姓」といって、豪農とはいわないまでも、かなり恵まれた農民でした。 それに対して、後者は農民の中でも比較的貧しい家と見ていいでしょう。しかし、そのような境遇に生まれながらも、秀長は真面目に働き、秀吉が出ていった後の家を、支えていったものと思われます。
秀長が武士として出世できた背景
そんな農民として暮らしていた秀長に、突然転機が訪れます。永禄5年(1562)、兄の秀吉が家に戻ってきたのです。 家を出ていた秀吉は、永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で信長が今川義元を破ったころ、織田家の足軽に昇進。その後も活躍を続け、永禄5年ごろになると、部下を持つ足軽組頭に成長していました。出世の糸口をつかんだ秀吉としては、身近に信頼のおける家臣がほしい。そこで弟の秀長のことを思い出し、やってきたのでしょう。 秀長は、突然現われた兄から、武士となって自分を支えてほしい、と求められます。今まで田畑を耕す生活をしていた者が、いきなり武士へと転身する......。現代人の感覚からすれば、全く別の能力が求められるため、断りたくもなるでしょう。 しかし秀長は、兄の誘いを受けるのです。その決断の背景は、当時の兵農未分離という時代状況も含めて考えるべきでしょう。 この時代の農民というと、どうしても江戸時代の兵農分離のイメージでとらえがちです。武士と農民は完全に別々の存在に見えるかもしれませんが、当時は違います。秀吉や秀長が若いころはまだ、武士と農民の区別があいまいな状態でした。というのも、農民であっても、戦がおきれば動員され、武器を持って戦っていたからです。 ではなぜ、農民は危険な戦いに参加していたのでしょうか。それは地主と小作の関係から説明することができます。 地主は当時の土豪、つまり地侍ですので、戦いに出ることが頻繁にあり、小作に対して、合戦に参加するよう命令していました。時には小作料を免除するからといって、参加を求めることもあり、貧しい農民の生まれである秀吉も秀長も、戦に出た経験があったはずです。 戦の経験を重ねるたびに、秀吉や秀長は机上の空論ではない、実践的な戦い方を、体に沁み込ませていったに違いありません。こうした経験があったからこそ、秀吉は信長のもとで頭角を現わせたのであり、また秀長も、兄によっていきなり武士とされながらも、見事に順応していくことができたのです。