「奇跡の少年と呼ばれ…」「生き残ったことを素直に喜べず」福知山線脱線事故の負傷者と東日本大震災の被災者 2人の生存者が「命」語り継ぐ
2005年、JR福知山線で起きた脱線事故。その瞬間を、乗客の一人だった小椋聡さんは鮮明に覚えている。 【写真】只野さんはいつもクラスメイトの写真を持ち歩いていた 小椋聡さん:私が車両の異常に気付き始めたのは、周囲の乗客の皆さんが尋常じゃな事態だと気づき始めてざわざわしていました。 次の瞬間、車体がねじれるような形で、私の周りに立っていた人たちが全員一気に頭を前にしながら、車両の先頭の方に飛ばされていきました。
■「最も犠牲者の多い2両目に乗車」小椋さんは足に大けがも奇跡的に助かる
小椋聡さんは、通勤途中にJR福知山線脱線事故に遭った。 7両編成の列車のうち、3両目までが脱線。 1両目と2両目は原型をとどめないほどの惨状となった。 小椋さんが乗っていたのは、最も犠牲者の多かった2両目。 足に大けがをしたが、奇跡的に命は助かった。 小椋聡さん:生存されている方がいるかいないかわからないという報道。確かそうだったんです。思い出します、これ(当時の新聞記事)を見たら。 自分が(入院中に)ベッドに寝ながらテレビを見ていて、まだ車内に生きているか亡くなっているわからない人がいるということだけは分かっていた。 この事故で命を落としたのは、乗客・乗員107人。 小椋さんは、自分が生き残ったことを素直に喜ぶことができなかった。 小椋聡さん(2006年):誰かの犠牲の上に今の私の命、私たちの生活があるのではないか。私はこの1年半の間、ずっと考えずにはいられませんでした。
■「生存者としての責務」“最期の乗車位置を探す” 尽力も妻が心の病に
生存者としての責務を感じ、遺族が知りたがっていた亡くなった人の最期の乗車位置を探す取り組みに奔走した、小椋さん。 夫の力になりたいと、電車に乗っていなかった妻の朋子さんも活動に参加し、夫婦で事故に向き合い続けた。 しかし、遺族の悲しみに寄り添ううちに、妻の朋子さんは、双極性障害という心の病を発症。 妻が自ら命を絶ってしまうのではないかという不安に駆られることもあった。
■JR福知山線脱線事故からまもなく20年 「今じゃないとやれないことを」
まもなく事故から20年。 小椋さんは新たな転換点をむかえていた。 小椋聡さん:19年目・20年目という時期は、かなり日常生活の方のウェイトが大きくなってきた。 自分がとらえている事故像みたいなものが10年目とはずいぶん違うかなって気づいた。 このタイミングで、もし(事故に)向き合わなかったら日常の中に埋もれていくような状態になっていくだろうなと予測できました。 今じゃないとやれないことをやっておかないといけないのではないかという気がしました。 事故を通して得たものを後世に残したい。 小椋さんは、命について伝える場を作ることを決めた。
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