沖縄戦の記憶を伝える「生き証人」沖縄陸軍病院南風原壕 文化財指定までの道のりと関係者の思い
なぜ南風原に構築された
元々那覇に開設された陸軍病院。10・10空襲で建物や物資が大きな被害を受けたことから南風原国民学校に移され、さらに、地上戦を見据えた病院壕の構築も急がれた。 南風原文化センター 保久盛陽 学芸員: ほとんどの壕が手堀りで掘っています。ツルハシとか鍬とか、そうした道具で、人力で掘った壕になっています 南風原文化センター 保久盛陽 学芸員: 坑木、柱です。柱は90センチおきに、軍がきちんと壕としてつくっていますので、規格をしっかりと90センチおきに穴を掘って柱を据えて、補強しながら使っていました Q.掘り始めはいつごろから? 南風原文化センター 保久盛陽 学芸員: 1944年9月3日と記録に残されています。10・10空襲が始まる前の段階から既に壕の構築自体は始まっていたと なぜこの地域が医療活動の拠点に選ばれたのか、その要因は南風原の地理的な特徴にあった。 保久盛陽学芸員によると、南風原は海に接していないということが重要な要素であり、海に接しているとすぐに米軍が上陸して地上戦になる可能性があるため、前線ではなく後方に位置できるということが、南風原の利点だったのではないかとのこと。 戦前は軽便鉄道の路線も走っていたため、交通の便の良さもあって、南風原が選ばれたのではないかなとも考えられる。 病院壕の公開に至るまでには、町をあげての長年にわたる取り組みがあった。
全国初の戦争遺跡として文化財に指定
1980年前後から、黄金森で遺骨収集が進められたことなどから、南風原町は病院壕の文化財指定について本格的な検討を始めた。 奔走した一人が、元南風原文化センター館長の大城和喜さん。文化財指定の道筋を探したいと沖縄県などに問い合わせたものの、取り合ってもらえなかったという。 大城和喜さん: 当時の担当者は、まだ(戦後)50年しかならないから“時期早々”だと。国に問い合わせたら、「価値というものは100年経たないと評価ができない。まだ50数年でしょ」と。だから蹴られた。それなら南風原独自でやろうと 1990年、南風原町は全国で初めて戦争遺跡として沖縄陸軍病院南風原壕群を町の文化財に指定した。そして、戦争遺跡として残すだけでなく、どう活用していくのか発掘調査や研究が行われた。 大城和喜さん: これを残せば、この壕が、現場が沖縄戦を語ってくれる。だから文化財指定が必要 特に保存状態の良かった20号壕の整備を終え、2007年には一般公開が実現した。それから今日まで沖縄戦の実相を伝える場所として病院壕は生き続けている。 南風原文化センター 保久盛陽 学芸員: 南風原にとって沖縄戦を語る大事な“生き証人”であると。ただ残すだけではなく、きちんと活用するということも含めて文化財指定をしています 体験者の証言を直接聞けなくなるときが迫りつつある今、戦争の「現場」を残すことがより大きな意義を持っている。 沖縄戦の終結からまもなく80年。悲惨な記憶を継承する拠点として、病院壕はこれからも南風原の丘に立ち続ける。 (沖縄テレビ)
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