死者2000人、昭和最悪の火災「函館大火」写真が極秘になった謎…戦争中でないのになぜ? 鍵は「タブーの山」
90年前の1934年3月、北海道で函館大火という惨事があった。明治以降の火災としては、震災や戦災を除いて国内で最大規模とされる。被害の様子を収めた航空写真が、旧日本海軍によって「極秘」とされ、現在は防衛研究所に保管されていることが分かった。 【写真】取り壊し寸前の江戸城、ハイビジョンのような鮮明さ 幕府崩壊から数年
第2次世界大戦が始まる前の時期に、戦争と無関係な大火の写真を「極秘」としたのはなぜなのか。軍事史の専門家に話をうかがうと、謎を解く鍵の一つに「タブーの山」の存在が浮かび上がってきた。(共同通信=志田勉) ▽死者2166人のうち半数が水死と凍死 そもそも函館大火とはどのような火災だったのだろうか。函館市によると、1934年3月21日午後6時53分ごろ、北海道函館市の民家から出火。強風にあおられて燃え広がった。最大瞬間風速は推定で39メートル。死者2166人、焼失面積は約416ヘクタールで函館市街地の約3分の1が焦土と化した。 「壮絶を極める火災だった」 函館大火に関する資料を長年分析してきた郷土史家の中尾仁彦さん(81)は言う。「元々、函館は強風の街。明治以降、100戸以上焼失した火災は昭和の函館大火まで26回も起きている」 「昭和の大火当時も計測器が壊れるほどの風が吹いた。水圧が弱く、初期消火にてこずった上、バラックのような木造住宅の多さなど悪条件が重なりました」
避難者が殺到した木造の三つの橋が崩壊、焼失したことも被害拡大の要因になった。中尾さんが話を続ける。「停電で暗闇の中、大勢の人たちが橋の上で身動きが取れなくなりました。横殴りの風雪が激しく、川に転落し命を落としました」 死者2166人のうち約半数が水死と凍死だった。 ▽災害救護の一環で青森・大湊から飛行 写真は旧海軍の大湊要港部(青森)司令官が海軍大臣に宛てた「函館大火災害救護状況報告」に収められていた。災害救護の一環で、状況把握のため大湊航空隊の水上偵察機1機が火災2日後に撮影した。 写真を中尾さんに見てもらった。「地上撮影の写真は残っているが、航空写真は初めて見た。大火の全体状況が分かる貴重な資料だ」 写真は鮮明とは言えない。でも焼失した部分は黒く、焼け残った所は雪で白くなっている。中尾さんは写真を指でなぞりながら建物の手がかりを求めようとした。「旧海軍の手書きの地図と照合すると、焼失を免れた函館駅方面のほか、立待岬や大森浜、津軽海峡が分かりますね」