死者2000人、昭和最悪の火災「函館大火」写真が極秘になった謎…戦争中でないのになぜ? 鍵は「タブーの山」
▽燃えなかった東本願寺函館別院 地図には「撮影目標物」として、東本願寺函館別院が書いてある。中尾さんが説明してくれた。「函館別院は明治後期の大火で焼失した後、大正時代に寺院として国内初の鉄筋コンクリートで再建された。昭和の大火では近くの防火帯の二十間坂(幅約36メートル)なども功を奏し、延焼を免れました」 中尾さんはぐっと顔を写真に近づけた。「高度がかなりあり、建物は確認できない。でも東本願寺とみられる印が付いた場所付近で焼失と非焼失部分がはっきりと分かれている。上空から見て、その対称が明確だったので、撮影したのでしょう」 ▽偵察機の性能とカメラの解像度の流出危惧か 問題は、この写真がなぜ「極秘」とされたのかだ。旧海軍の報告書では全く触れていない。軍事史に詳しい明治大の山田朗教授に見解を聞いてみた。 「大湊要港部の報告書によれば、大火翌日の22日は風が強く飛行を見合わせている。写真は地上の状態はある程度分かるが、鮮明とは言えない。偵察機の性能とカメラの解像度が外部に漏れるのを危惧したのではないか」
函館大火を撮影したのは九〇式2号水上偵察機。山田教授によると、当時の最新式ではなく、旧式化しつつある、いわば過渡期の機体という。それでも旧海軍が旧陸軍よりも偵察飛行の経験値で優位性があったとみる。 「旧海軍の偵察機は第1次世界大戦で中国・青島を攻撃した時も偵察機を飛ばして撮影している。航空写真の撮影は旧陸軍よりも旧海軍の方が実績があった」。そして付け加えた。「手書きの地図に印を付けて飛行の進行方向と撮影方角を示すのは旧海軍の習慣です」 ▽津軽海峡の防衛を目的とした軍事要塞だった山 山田教授は旧海軍が「極秘」にした理由として、もう一つ考えられるという。函館山(334メートル)の存在だ。「焼け跡と隣接する函館山は、かつて砲台などがあった軍事要塞でした。周辺を含めた写真の流出を懸念した可能性もある」。確かに写真には函館山は写っていない。 現在、函館山は函館市の観光名所。特に夜景は「日本三大夜景」の一つとして知られ、国内外から大勢の観光客が訪れる。しかし、軍事要塞だった歴史に目を向ける人は多くない。