死者2000人、昭和最悪の火災「函館大火」写真が極秘になった謎…戦争中でないのになぜ? 鍵は「タブーの山」
函館市史などによると、函館要塞は明治時代、日露戦争を想定し、津軽海峡の防衛強化を目的に建設された。函館山に大小5カ所の砲台や戦闘司令所などを設置した。実際には商業港としての函館港を守る役目を担った。 同じ頃、「要塞地帯法」という法律が制定された。函館山は戦後まで一般市民の立ち入りが禁止され、写真撮影や模写も厳しく制限された。当時の市民には「タブーの山」だった。 函館大火が起きたのは満州事変の約2年半後。軍靴の足音が近づいていた時代状況を踏まえ、山田教授は災害救護の一環で撮影した旧海軍には別の狙いもあったとみる。 「函館と大湊は重要な軍事拠点。大湊から偵察機を飛ばして、どのくらいの時間で任務を完了できるか。そういう経験を搭乗員に積ませたいという目的もあったのかもしれない」