消えた砂利鉄。1日わずか4往復、終着駅の利用者135人…「西寒川支線」の歴史と廃線跡
◆1日の乗降客数は、わずか135人
戦争の影が色濃くなると、相模鉄道にも大きな変化が訪れる。1941(昭和16)年6月、相模鉄道は五島慶太率いる東京横浜電鉄(後の東京急行電鉄=東急)の傘下に入り、次いで1943(昭和18)年4月、東急主導で、同じく東急傘下に入っていた神中(じんちゅう)鉄道(横浜-海老名間)を吸収合併。 さらに翌1944(昭和19)年6月、陸運統制令により茅ケ崎-橋本間の本線と西寒川支線が国有化された。 なお、国有化に際して四之宮口駅が西寒川駅と改称されるとともに、西寒川―四之宮間が廃止され、西寒川が終点駅となった。 戦後は、旧・神中鉄道部分が私鉄の相模鉄道(横浜―海老名間)、旧・相模鉄道部分が国鉄相模線(茅ケ崎―橋本間、寒川―西寒川間)として歩み始め、西寒川支線は、再び貨物専用線となるが、海軍工廠跡地周辺への工場進出に伴い、1960(昭和35)年11月、旅客輸送を再開。 しかし、モータリゼーションが進み、各工場も自前の送迎バスを運転したことなどから旅客輸送は振るわず、廃止2年前の1982(昭和57)年の西寒川駅の1日の乗降客数は、わずか135人(『寒川町史』)に過ぎなかった。 現在、西寒川支線の廃線跡は「一之宮緑道」として整備されているので、歩いてみることにしよう。今回は、前出の寒川町観光ボランティアガイドの森和彦さんに同行していただいた。 JR寒川駅の改札を出ると、正面の窓からは丹沢の大山(標高1252m)が大きく見える。南口から線路沿いに、相模国一之宮である寒川神社参道入口に位置する「大門踏切」へと歩を進める。この踏切の手前で西寒川支線は本線から分岐していた。 大門踏切前交差点で県道を渡ると、「ゲート広場」と名付けられた小さな広場が整備されている。広場に設置された信号機を模した道標に従い、「一之宮公園」と示された道へと進もう。 ゲート広場から歩き始めて5分ほどすると、実物の列車の車輪を使った車止めが現れ、その先およそ180mにわたって線路敷きが保存されているのが見えてくる。鉄道が廃止されると、レール等の構造物は撤去されてしまうのがほとんどであり、部分的ではあるものの、このように保存されているのは、とても珍しいケースだ。