日本初の鉄道堤は保全不十分 歴史的遺構 開発と保護、難しい両立
北九州市が同市門司区で計画する、複合公共施設の建設予定地の地中から見つかった明治期の初代門司港駅(当時の名称は門司駅)関連遺構は、市が保存と移築を決めた機関車庫跡のわずか一部を除いて事実上の全面解体となった。開発と埋蔵文化財の保護をいかに両立させるかは、国際記念物遺跡会議(イコモス)が2022年に緊急声明「ヘリテージアラート」を出した東京都の鉄道構造物「高輪築堤」の保全が不十分だった反省から、国でも議論がなされている。 【写真まとめ】北九州市では“国史跡級”遺構が解体された 高輪築堤は新橋―横浜で開業した日本初の鉄道のうち、海上に築かれた堤だ。東京湾の埋め立てで地下に埋もれたが、19年にJR品川駅周辺の再開発による掘削工事で見つかった。 堤の存在や価値が高いことは知られていたが、開発前は発掘、保護に向けた動きが鈍く、発掘後も開発計画変更に難色を示す事業者の意向で、現地保存ができたのは800メートルのうち120メートルにとどまった。 埋蔵文化財保護のため、文化庁は都道府県教委に埋蔵文化財が所在する土地を「埋蔵文化財包蔵地」(包蔵地)として登録するよう求めるが、高輪築堤は登録されていなかった。文化庁が公表した22年の報告書は、高輪築堤の事例を教訓に、開発との競合を避けるため早期に遺跡を把握し包蔵地として登録し、必要に応じ史跡化することの重要性を強調する。 では、北九州市で見つかった初代門司港駅の関連遺構はどうだったのか。 福岡県教委の担当者は「資料から遺構がある可能性は把握していたが、建物などがあって調査できなかった」と話す。包蔵地登録に向けた試掘がなされたのは、北九州市が元の所有者だったJR九州から土地引き渡しを受けた直後の23年3月。試掘の結果、遺構の存在の可能性が高まったため同5月に包蔵地として登録され、同9月に始まった発掘調査で遺構が見つかった。 発掘後、市は遺構の扱いについて県教委と文化財保護法に基づく協議を複数回実施したが、毎日新聞が入手した協議の概要を記した県教委の文書によると、市は終始解体を前提とした記録保存を主張していた。 市幹部は、施設整備に向けた9年間の議論を念頭に「代替地がないことは結論が出ている。文化財保護と開発が融合できない難しいケースだった」と吐露。「せめて用地選定時に包蔵地が分かっていれば違ったかもしれない。高騰を続ける人件費や資材などに充てる財源、既存施設の老朽化を考えれば立ち止まる時間はなかった」と強調する。 23年に文化庁が都道府県に実施したアンケートでは、近代遺跡の3割は開発に伴って把握される。価値が高いものがあっても、開発事業者に計画変更を求めることは制度上難しいのが現状だ。保存するとなれば、事業者や地域、専門家の合意形成が不可欠となる。 行政が果たす役割も大きいが、約40年間、市の埋蔵文化財発掘調査にあたってきた市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室の佐藤浩司・元室長は「北九州市は工業都市として発展した経緯からか開発優先の傾向が強く、文化財へのまなざしが弱い」と指摘する。 22年の文化庁の報告書作成に携わった坂井秀弥・奈良大名誉教授(文化財学)は「近代の埋蔵文化財は古い時代のものと比べて適切に評価されていない現状がある。それでも、北九州市の発展を考えると、初代門司港駅はその出発点といえる象徴的な施設だ。市を代表する観光スポット『門司港レトロ地区』と一体でもあり、全部といわなくとも保存に向けてもう少し手立てはあったのではないか」と指摘する。【伊藤和人、山下智恵、吉住遊】