戦没画学生に問われた26年 : 無言館館主「俺はひたむきに生きたのか」
講演後、野見山さんは投宿先の温泉宿で、戦争体験を話してくれた。 自分が内地へと戻る列車を、軍服姿で見送りに来た仲間たちのこと。窓をたたきながら、「お前、生きて帰れるのか。また絵が描けるのか。うらやましい」と叫んだ学友のこと。『祈りの画集』の旅のことなど、話は尽きなかった。特に野見山さんは、仲間たちが遺した作品の行方に危機感を抱いていた。 「何人かの遺族に、いつか彼らの絵を展示する施設を作りたい、なんて約束をしてね。でも今やそのご両親も亡くなっている。あれから数十年がたち、いま彼らの絵がどうなっているのかと思うと、やりきれない」 画家の思いをはかりかねた窪島さんは、率直にこう問い返したそうだ。 「僕のように戦争体験をもたない人間には、遠い時代の古びた絵の話に思えるのですが」 すると野見山さんは言った。 「1点1点はそうかもしれない。ただ、彼らは生きて絵を描きたかったに違いない。そんな思いのこもる絵が集まれば、僕たちの想像を超えた大きな声となって、聞こえてくる気がするのですよ」 こうも言った。「生き残った我々がどれほどの仕事を残したのか。彼らの絵の方が、何倍も純粋だったんじゃないかな」。 野見山さんの夢を応援したいと思った瞬間だった。「お手伝いします」
遺族を訪ねる旅で見えた 戦争を考えてこなかった「自分」
それから3年間半に及んだ遺作めぐりの旅の詳細は、窪島さんの著作に詳しいが、野見山さんは約10組の遺族と対面した後で、「あとは任せる」と旅から離脱してしまった。窪島さんはこう回想する。 「親の世代は亡くなっており、対応してくれたのは画学生の子どもや兄弟たちでした。野見山さんは、かつての旅で感じた濃厚な戦争の記憶が世間から消えていたことに、失望しておられたのだと思います」 逆に窪島さん自身は、遺族を訪ねる旅の中で覚醒したという。 「画学生の絵を50年もの間、大切に抱えていた親族の方々と向き合うことで、初めて自分が戦争のことを何も考えてこなかった人間だと気づかされ、恥じ入りました」 北は北海道、南は鹿児島まで訪ね、計37組の遺族から87点の作品を預かった。設立趣旨に賛同する全国の戦没者遺族からの寄付金に加え、銀行からの融資を得て、十字架の形をした平屋建ての美術館が完成。招待された野見山さんは「本当に作ったんだね」と、苦笑いしていたという。 無言館の開館が主要メディアに大体的に報じられると来館者が殺到。1年目は約12万人が押し寄せ、以後も数年間は10万人前後が訪れ、窪島さんもメディアの対応に追われ続けた。 だが時は残酷だ。薄れゆく戦争の記憶と共に、無言館への関心も次第に薄れつつある。開館から10年が過ぎたころの来館者は最盛期の半分まで減り、さらに10年が過ぎ、この数年は年間3万人前後で推移している。