戦没画学生に問われた26年 : 無言館館主「俺はひたむきに生きたのか」
「戦後の経済成長男」の人生、復員画家との出会いで一変
30年ほど前に戦没画学生たちの遺族を訪ね歩き、この無言館を開設したのは、現館主で文筆家の窪島誠一郎さんだ。作家の故・水上勉さんの実子としても知られる。 いま82歳となった窪島さんは、無言館館主としての四半世紀を振り返るとき、こんな複雑な心情を打ち明けるのだった。 「戦没画学生の存在と作品をいたずらに消費してきた26年だった。自分があの世に行く前に、この画学生たちに対して、偽りのない気持ちで向き合わなくてはと思うんです」 日米開戦の数週間前、41年11月に生まれた窪島さんは、これまでも「自分にはこれといった戦争体験がない」ことへの負い目を公言してきた。「何しろ戦後の経済成長の流れに乗って生きてきた、幸運な成功者の一人ですからね」。 戦災で荒廃した東京で貧しい靴職人の養父母に育てられたが、独自の商才を発揮し、20代前半にスナック経営で成功を収めると、寺山修司や浅川マキなどが輩出した小劇場「キッド・アイラック・ホール」を東京・世田谷に開設した。 渋谷で画廊経営にも乗り出し、30代の終わりに、夭逝した画家たちの作品を集めた美術館「信濃デッサン館」を上田市に開設した。 そんな自称「戦後の経済成長男」の人生の潮目が、50代半ばで一変した。画家の野見山暁治さんとの縁がつながったためだった。
耳に残る学友の声 「生きて帰れるのか。また絵が描けるのか」
野見山さんは、あの戦争の「生き残り」としての贖罪(しょくざい)意識を、抱えながら生きていた。
1920年に生まれ、東京美術学校を繰り上げ卒業して出征した野見山さんは、満州でろく膜を患い、復員。内地で終戦を迎えたが、戦場に残った学友の多くは生きて帰らなかった。 終戦から20年が過ぎたころ、野見山さんは戦没画学生の遺族を訪ね歩き、遺作と向き合い、1977年には『祈りの画集 戦没画学生の記録』として刊行した。 そしてこの『祈りの画集』に関心を抱いた窪島さんが、野見山さんに「信濃デッサン館」での講演を依頼した。戦後50年を目前とした1994年のことだった。