戦没画学生に問われた26年 : 無言館館主「俺はひたむきに生きたのか」
浜田 奈美
あの戦争で、絵筆を手放し戦地に向かい、命を落とした画学生たちの作品を集めた美術館が長野県上田市にある。1997年5月に開設された「無言館」。戦争体験をもつ画家・野見山暁治さんの思いに突き動かされ、文筆家の窪島誠一郎さんが建てた私設美術館だ。その存在自体が戦争の「語り部」となってきた施設だが、高齢となった館主は、「戦没画学生を消費してきた四半世紀だった」と自省の念にかられている。
無言館は、長野県上田市郊外の小高い丘の上にひっそりと立っている。正面に「無言館」と彫られ、扉もあるものの、そこが入口とは明示されていない。何か「覚悟」が問われているかのようだ。 扉を開けると、薄暗く静ひつな空間が眼前に広がる。太平洋戦争に散った美術学校の画学生や卒業生の遺作たちが壁いちめんに展示され、中央のガラスケースにはスケッチブックや手紙などの遺品も並んでいる。
足を踏み入れた途端、背後に気配を感じて振り返ると、兵隊らしき肖像画が正面を見据えている。大貝彌太郎「飛行兵立像」。大半の絵の具が無残に剥がれ落ちてしまっているが独特の存在感がある。絵のモデルは、特攻隊員だったといわれている。
身重の妻を残し出征 我が子を抱けずに散った
視線を前に戻すと、左右の壁に向き合うようにかかる裸婦像に目を奪われる。左の壁には日高安典「裸婦」、右の壁の絵は中村萬平「霜子」とある。 日高は鹿児島県種子島から2浪して東京美術学校(現在の東京芸大)油画科へ進み、繰り上げ卒業後に出征した。満州やフィリピンを転戦し、45年4月、ルソン島で戦死。「裸婦」は日高の弟が東京のアトリエから持ち帰って保管していたものの一枚だ。モデルの女性に、日高は憧れていたという。 一方の「霜子」には、青黒い暗闇の中で片膝を立てる女性の裸体が描かれている。重々しい色彩をまとい、二人の宿命を暗示するかのようだ。 中村は、東京美術学校油画科を首席で卒業したが、身重の妻を残して出征した。妻は男児を出産後、ひと月ほどで他界。中村も妻の死から半年後の43年8月、我が子を一度も抱けないまま戦地で病死した。「霜子」は夫妻の忘れ形見である息子の暁介さんが大切に保管していたものだった。 現在、無言館には130人の画学生による177点の絵画や彫刻が展示され、収蔵庫「時の庫(くら)」には約600点の遺作を保管している。 展示作品には、作者がいつ、どこで亡くなったかを知らせる解説が添えられている。中にはその記録すら残らずに散った者もいるが、いずれにせよ、画学生たちは恋人や家族の肖像、故郷の風景画などを残し、命を落としていったことを揺るぎない現実として、見る者に突きつける。